令和4年2月14日の事【5】

後醍醐天皇陛下が、悪政を糾す為に御立ちになられたのでございます。

畿内地区の武士たちは、帝の威光が良く理解出来ているので一斉に鎌倉幕府に盾をついたのでございます。

特に御家人&地頭職だけでは食べる事が出来ない為に運送業の副業にも税金を徴収して来たのでございます。

運送業の組合長的存在の楠兵衛尉正成が、一家一門衆を引き連れて蜂起したのでございます。

鎌倉幕府執権職北条高時は、政治を投げ出し遊び事にふけっていたのでございます。

そこで北条家執事職長崎氏が、政治を主導したのでございます

長崎氏は、北条家一門衆を畿内地区に派遣する事はしなかったのでございます。

そこで討伐軍として派遣されたたのが、足利治部太夫尊氏でございます。

足利治部太夫尊氏は、執権職北条高時や長崎や北条一門衆に出陣の挨拶に出向いたのでございます。

しかしながら足利治部太夫尊氏は、北条一門衆を滅ぼす事は隠し専ら北条家の為に畿内地区の反乱を鎮めると偽り挨拶したのでございます。

足利治部太夫尊氏は、秘密裏に諸国に散らばる足利家一門衆を三河國に結集するように下知を発したのでございます。

三河國は、代々足利家一門衆が守護職を拝命していた國でございます。

三河國には、吉良家&今川家&一色家&細川家&仁木家などの足利家一門衆が領地としていたのでございます。

そして鎌倉幕府執権職北条家の政治に不満を抱える源氏系統の家筋の武士団にも秘密裏に呼びかけたのでございます。

足利治部太夫尊氏は、何と鎌倉幕府出先機関である六波羅探題【南北】に攻め込んだのでございます。

六波羅探題では、足利治部太夫尊氏は六波羅探題に攻め込んで来るとは夢夢考えてなかったのでございます。

足利治部太夫尊氏の軍勢は、何と1日で六波羅探題に攻め落としたのでございます。

此れを聴いた鎌倉の北条家執事職長崎円喜は、今回の討伐軍は皆が源氏系統ぞと後悔したのでございます。

北条家は平氏系統、足利治部太夫尊氏は源氏系統の家筋でございます。