令和3年12月31日の事2

戦国合戦記で面白いのは、木下藤吉郎秀吉のホップステップジャンプの出世物語でございます

次には、やはり関東地区伊豆国相模国守護職大名に就任した伊勢新九郎盛時の物語でございます。

室町幕府の創設者足利治部太夫尊氏は、京都に室町御所を設置したのでございます。

しかし足利治部太夫尊氏は、元々は下野国の大名でございます。

また源頼朝は、相模国鎌倉に幕府を設置したのでございます。

足利家は、源頼朝と同じ源氏の系統でございます。

そこで源頼朝は、同じ源氏の系統でございます足利家を筆頭御家人に指名したのでございます

しかし源頼朝の系統の征夷大将軍💟は、3代で倒産したのでございます。

その後には北条時政が、政所別当職を拝命したのでございます

また北条家は、執権職として他の御家人たちを束ねる地位を確立したのでございます。

しかし鎌倉幕府の最後の執権職&北条得宗北条高時は、政治は執事職長崎氏に丸投げしたのでございます。

長崎氏は、桓武平氏であり北条得宗家と同じ平氏の系統でございます。

この長崎氏の政治に対しては、他の御家人は何時打ち滅ぼそうと考えていたのでございます。

そして後醍醐天皇陛下は、民人の苦しむ姿に我慢出来なかったのでございます。

そこで畿内地域の武士団&西国の武士団&比叡山延暦寺の僧兵たちをかき集めて鎌倉幕府を成敗しようとしたのでございます

そこで鎌倉幕府得宗北条高時は、何と自らは出陣する事も無く足利治部太夫尊氏を総大将に指名して皆討伐軍は源氏の系統でございました。

足利治部太夫尊氏は、総大将として大軍に対して大演説をかましたのでございます。

我々が敵は、鎌倉幕府出先機関六波羅探題であるぞと。

足利治部太夫尊氏の裏切りによりて、鎌倉幕府北条得宗家は倒産したのでございます。

しかし足利幕府も安定する事も無く、戦乱の世の中に突入したのでございます。

各地では守護職大名家の相続問題が勃発したのでございます。

また室町幕府は、京都だけでは無く関東地区にも足利幕府の将軍が存在したのでございます。

また関東地区の足利将軍職の管領家として、上杉家が世襲したのでございます。


しかし坂東武者は、合戦合戦で同じ管領家上杉同士で相続問題が勃発して合戦したのでございます。

また足利公方職も、兄弟縁者でやはり合戦したのでございます

この複雑化している関東地区に足利幕府の取次衆の1人伊勢新九郎が乗り込んだのでございます。

しかし複雑怪奇な政治的対立の為に、味方が次の朝には敵になると云う先が読めない合戦を伊勢新九郎は乗り切れる事が出来たのでございます。

伊勢新九郎は、武士階級の税金の取分を4にしたのでございます。

そして農民階級の取分を6分にしたのでございます。

すると伊勢新九郎の領地の農民になりたいと云う農民階級が他国で続出したのでございます。


伊勢新九郎は、農民階級を味方にした為に伊豆国相模国の2カ国の守護職大名に指名されたのでございます。