令和4年2月16日の事【3】

後醍醐天皇陛下が、鎌倉幕府執権職北条高時の悪政を糾す為に立ち上がられたのでございます

後醍醐天皇陛下の心根を受け取った武将が、数多存在したのでございます。

後醍醐天皇陛下が、隠岐の島に流された時には備前岡山県の児島を領地とする武将が後醍醐天皇陛下を助けようと馳せ参じたのでございます。

しかしながら時既に遅く、後醍醐天皇陛下が通過した後だったのでございます。

また鎌倉幕府からは、播磨國の守護職を拝命していた赤松家などは公然と鎌倉幕府執権職北条高時に対して謀反を企てたのでございます。

しかし武家の棟梁各であり鎌倉幕府の筆頭御家人足利治部太夫尊氏は、素知らぬ顔で畿内地区の謀反を鎮める総大将に指名されたのでございます。

足利治部太夫尊氏は、畿内地区に5万騎馬の軍勢を引き連れて行く事となりました。

ところが足利治部太夫尊氏は、諸国の武家に対して鎌倉幕府に楯突く輩を討伐するのでは無く鎌倉幕府出先機関六波羅探題に攻め込んだのでございます。

そして足利治部太夫尊氏の軍勢は、1日で六波羅探題を打ち破ったのでございます。

この軍勢に真っ先に馳せ参じたのが、赤松円心と云う鎌倉幕府から播磨國の守護職を拝命している武将でございました。

そして赤松円心は、今回の軍勢の総大将として足利治部太夫尊氏に心境を訪ねたのでございます。

足利治部太夫尊氏は、赤松円心に答えました。

我は武家貴族源氏系統でございます。

しかしながら平氏系統の北条得宗家に武家の棟梁の座を明け渡していたのでございます。

ところが今回の合戦では、5万騎馬の軍勢を動かす総大将に指名されたのでございます。

実際に総大将として、諸国の武家を束ねた感想は大工の棟梁のような心持ちと答えたのでございます。

ところが赤松円心は、足利治部太夫尊氏から後醍醐天皇陛下の傘下の武将として活動したのでございます。

しかし赤松円心の恩賞は、播磨國一国の領主から播磨國の一部分の領地の地主に格下げになったのでございます。

赤松円心は憤慨したのでございます。

足利治部太夫尊氏の館を訪ねてやはり公卿は武家の気持ちが理解出来ないようでございます。

やはり武家の気持ちは、同じ武家階級である足利治部太夫尊氏殿しか理解出来ないとわかった事を伝えたのでございます。

その後赤松円心は、朝廷から頂いた領地も返還して自らの城に籠もってしまったのでございます。

そして足利治部太夫尊氏が、諸国の武家を糾合して後醍醐天皇陛下に反旗を翻したのでございます。 
その時に真っ先に足利治部太夫尊氏の陣に馳せ参じた武将が赤松円心でございました。

足利治部太夫尊氏が、室町幕府を創設した際に管領職と四職と云う政治機関を設置したのでございます。

管領職には、足利治部太夫尊氏一門衆が指名されたのでございます。

ところが四職には、何と1家だけが指名されたのでございます

その1家が、赤松家でございます。