令和4年2月9日の事【3】

朝入酸素運動は6割達成でございます。

内容的には20分間の散歩でございます。

筋肉トレーニング&体操は8割達成でございます。

内容はダンベル上下運動でございます。

朝我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経の実践でございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然上人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興&復興は間違い無しでございます。

我が事業の成長軌道間違い無しでございます。

足利治部太夫尊氏は、幼い頃に神が宿ると云う場所に家来筋を引き連れて行ったのでございます。

その神が宿ると云われていた場所は、新田家の領地上野國に存在したのでございます。

足利治部太夫尊氏は、幼い家来筋を引き連れて新田の領地に入り込んだのでございます。

ところが神が宿ると云われていたのは、ただの木でございました。

そして足利治部太夫尊氏の領地が存在する下野國に帰る途中に新田義貞と家臣筋に見つかってしまったのでございます。

新田義貞主従は、足利治部太夫尊氏よりも少しだけ大人でございました。

そこで足利治部太夫尊氏主従は新田義貞主従にボコボコにされてしまったのでございます。

足利治部太夫尊氏も、新田義貞も成長したのでございます。

足利治部太夫尊氏も、新田義貞も同じ源氏系統の武家でございます。

ところが新田家は、余り源頼朝に対して協力的ではなかったのでございます。

一方で足利家は、源頼朝を兄貴と慕うような惣領家だったのでございます。

その結果として、新田家は地頭職を拝命しただけでございました。

一方で足利家は、5カ国の守護職を拝命し鎌倉幕府の筆頭御家人の立場を手に入れたのでございます。

そして鎌倉幕府執権職北条相模守兼務正4位高時の政治が余りに横暴であり諸国の武家が北条家討伐に立ち上がったのでございます。

そして足利治部太夫尊氏は、京都の六波羅探題を攻め落としたのでございます。

一方で新田義貞は、鎌倉幕府の本体の鎌倉市を攻め落としたのでございます。

しかしながら足利治部太夫尊氏は、後醍醐天皇陛下に反旗を翻えしたのでございます。

足利治部太夫尊氏率いる武家後醍醐天皇陛下方との合戦は泥沼化して行ったのでございます

そんな中で足利治部太夫尊氏は武家の棟梁家として死ぬる直前まで合戦場に出向いていたのでございます。

そして足利治部太夫尊氏は、ふと思っていたのでございます。

あの幼い頃に観た単なる木切れが、真の神様だったのである事を。