令和4年2月10日の事【1】

源平合戦の時代には、直ぐに刀で斬り遭うのでは無く先ずは言葉闘いをする事がエチケットでございます。

自分自身の先祖の系譜を語る。其れも弁舌さわやかにでございます。

相手方の武士は、敵将の系譜が自分自身よりも家筋が優れていると怯むのでございます。

其れから弓矢を射掛けるのでございます。

何方方の武士が、強弓を引く事が出来るかを競うのでございます。

そこで源平合戦の時代は、兜が肩まで届くような大きい鎧兜でございます。

腕の良い武士は、少しの隙間を見逃す事無く強弓を引くのでございます。

あの源鎮西八郎為朝などは、余りの剛勇振りに京都から九州地区に流し者になったのでございます。

源鎮西八郎為朝は、弓矢を引くのが趣味であり毎回訓練していた為に腕が片方長かったのでございます。

九州地区に行った源鎮西八郎為朝は、父親源為義や兄源義朝に迷惑を掛けた事を悔い改めたのでございます。

そこで九州地区の弱い民人の為にと、弱い者苛めをする輩を片っ端から屈服させていたのでございます。

そして九州地区の野盗や窃盗集団を悔い改めさせて、民人の為に働かせたのでございます。

この源鎮西八郎為朝の行為を聴いた悪左府頼長【左大臣藤原頼長】は、崇徳上皇陛下と後白河天皇陛下との合戦に源鎮西八郎為朝を起用したのでございます

源鎮西八郎為朝の豪胆振りに、立ち向かえる武将は皆無でございました。

しかしながら多勢に無勢でございます。

源鎮西八郎為朝は、大いに暴れた後に生け捕りになり首を斬られたのでございます。