令和4年2月23日の出来事【1】

朝入酸素運動は6割達成でございます。

筋肉トレーニング&体操は6割達成でございます。

朝我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経は達成でございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然先生バンザイ🙌でございます。

我が家の再興&復興は間違い無しでございます。

我が事業の成功は間違い無しでございます。

源頼朝と13人の仲間たちは面白いでしょうか?

関東地区でも、武蔵國の武士団は小さい地主が多く血筋の近い武士たちで党を結成し近隣諸国の武士団に対抗したのでございます。

俗に武蔵七党と呼ばれていたのでございます。

しかしながら武蔵國の秩父家は大大名でございます。

この秩父家は、武蔵七党の武士団も指揮する事が出来る権限も備えていたのでございます。

あの13人の中で畠山重忠は、秩父家の一門衆でございます。

源平合戦でも、畠山重忠が武蔵七党の面々の武士団を指導しながら宇治川を渡したのでございます。

しかし宇治川の先陣争いで勝利したのは、佐々木4兄弟の中で末の弟佐々木信綱でございます。

平家物語では、佐々木と梶原の先陣争いと云う章に出てくるのでございます。

武士にとっては、功名手柄の方法は、先ずは真っ先に敵陣に突入する事でございます。

次には侍大将の首を討ち取る事でございます。

しかし先陣は、真っ先に敵陣に突入する事であり真に危険極まりないのでございます。

次の侍大将の首を討ち取る事も相手は強い勇士の武者でございます。

だから自分自身が、5割の確率で討ち取られる可能性が存在するのでございます。

源平両陣営にも、味方の武士が如何に働いたのかを記録する係の武者も居たのでございます。

この先陣争いを、佐々木4兄弟の末佐々木信綱と梶原景時が嫡男梶原景李の二人の武者が狙ったのでございます。

梶原景李は、源頼朝の陣に行き頼朝が所有する名馬をおねだりしたのでございます。

そこで源頼朝は、二番目に可愛がっていた名馬を梶原景李に下さったのでございます。

その次に佐々木信綱が、出陣の挨拶に頼朝を尋ねたのでございます。

すると源頼朝は、頼朝自身が一番に可愛がっていた名馬を佐々木信綱に下さったのでございます。

佐々木信綱は、涙を流して感動表現を源頼朝に表したのでございます。

そして宇治川の先陣争いを梶原景李と佐々木信綱が繰り広げたのでございます。

梶原景李は、関西地区の宇治川の地形に詳しく無く名馬ではございますが一番の名馬ではございません。

一方で佐々木信綱は、関西地区の近江國の出身者であり宇治川の地形に対しても明るかったのでございます。

その上に源頼朝から、日本國1の名馬に乗り宇治川の先陣争いを繰り広げているのでございます。

梶原景李も関東地区の勇士ではございますか、佐々木信綱が名馬と関西地区の地形に明るい事が幸いして先陣争いを制したのでございます。

記録係は、宇治川での先陣は佐々木信綱殿と書いたのでございます。

源頼朝は、後々に佐々木信綱に伯耆国守護職に指名したのでございます。