源判官義経の事

源平合戦の最後の戦場は、あの宮本武蔵佐々木小次郎が勝負した巌流島が存在する引島でございます。


平家は、海の武士団であり船🚢合戦を得意分野とする集団でございます。


一方源氏方は、陸戦を得意分野とする集団でございます。



しかし壇ノ浦の戦いでは、平家は劣勢であり熊野水軍や三浦介の水軍やその他平家を見限った水軍が源氏方として参加していたのでございます。



そして瀬戸内海の潮の流れに精通していた平家方の方から合戦を仕掛たのでございます。



ところが何を考えたのか源判官義経は、平家方の船の漕ぎ手を狙い打ちして射殺したのでございます。



源判官義経の目付役梶原景時は漕ぎ手は非戦闘員であり射殺す事はエチケット違反と窘めたのでございます。



梶原景時は、海に面した相模国の武士であり船合戦にも精通していたのでございます。



しかし源判官義経は、幼少期は蔵馬寺の稚児として育て上げられていたのでございます。



そこで武家階級の人に弟子入りして合戦のルールを習った事がありませんでした。



そこで平家方の漕ぎ手を片っ端から射殺したのでございます。



この源判官義経のルール違反には、味方の武士たちからも批判が噴出したのでございます。



しかし小大名の中には、手柄を立てたい余り源判官義経の指示通りに漕ぎ手を射る武者も数多存在したのでございます。