後白河天皇陛下が、お気に入りの源九朗義経を左衛門尉兼検非違使の介に指名したのでございます。
後白河天皇陛下は、源頼朝との窓口業務役として源義経に過分な官職を与えていたのでございます。
源九朗判官義経に付き従っていた関東地区の武士たちは小豪族が多かったのでございます。
一方で源九朗判官義経の兄源範頼が率いる軍勢は関東地区の中でも大大名クラスの武士が多かったのでございます。
源九朗判官義経に付き従っていた武士に対しても、後白河天皇陛下は下級の官職を与えたのでございます。
源頼朝は、頼朝の許可無く官職に就任する事を固く禁止🚫していたのでございます。
源頼朝は、許可無く官職に就任した武士たちを口汚い言葉で罵ったのでございます。
在る武士に対しては、顔が悪いとか背が低いなどの言葉を浴びせたのでございます。
この出来事以降は、源頼朝は源九朗判官義経の事を恨むようになったのでございます。
そして遂には、源判官義経の討伐する事を関東地区の武士団に命令したのでございます。
源九朗判官義経は、幼い頃に可愛がってもらった奥州平泉藤原家を頼ったのでございます。
当然の事ではございます。
あの静御前も、源九朗義経の連れの中に存在したのでございます。
ところが静御前は、途中腹痛を起こし在る村に預ってもらったのでございます。
しかし鎌倉幕府の探索は厳しく静御前は捕まり鎌倉に連れて来られたのでございます。
鎌倉幕府の大小の御家人たちは静御前の舞を観たいと源頼朝にねだったのでございます。
源頼朝は、当然の事ではございます。
しかし鎌倉幕府の御家人たちが余りにも静御前の舞を観たいと云うので舞を披露させたのでございます。
静御前は、自らの命乞いをする舞を披露すると御家人たちは思い込んていたのでございます。
ところが静御前は、源頼朝の前面で源九朗判官義経を慕い続ける内容の舞を披露したのでございます。
その静御前の舞は見事な舞でございます。
鎌倉幕府の御家人の中には、源九朗判官義経の家臣筋に居た武士も存在していたのでございます。
源九朗判官義経と一緒に、平氏打倒の軍勢を催して命懸けの合戦を共にした武士は源九朗判官義経の事を思い出して号泣する者も数多存在したのでございます。
せめて源頼朝に対して、命乞いをする舞を披露するならば助けてやろと考えていた。
ところが源頼朝の前面で、謀反人源九朗判官義経を慕う舞を披露するとは何事だと云って静御前の首を刎ねろと命令したのでございます。
その言葉を隣で聴いていた北条政子は、源頼朝に対して私達も若い頃に手と手を繋いで伊豆神社に駆け落ちしたではございませんかと云って静御前の命乞いをしたのでございます。
源頼朝も、若い頃北条政子と駆け落ちした事を思い出していたのでございます。
また源頼朝が、世間に出る事が出来たのは、北条政子の実家の助けがあったからでございます
源頼朝は、北条政子に云われて考え方を改めて静御前の命を助けたのでございます。
私自身も、源九朗判官義経が羨ましいのでございます。
この元地頭職の私自身を、静御前のように慕い続ける女子に遭遇したいのでございます。