令和4年2月24日の出来事【1】

朝入酸素運動は100割達成でございます。

筋肉トレーニングは100達成でございます。

朝我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経は100割達成でございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然上人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興&復興は間違い無しでございます。

我が事業の成功は間違い無しでございます。

源木曽患者義仲は、宮から平氏を追い出さした第1の功労者でございます。

しかしながら源木曽患者義仲は父親は武家貴族階級とは云え源木曽患者義仲自身は、木曽地域の山奥で育っていたのでございます。

ところが宮で平氏の下で歯を食いしばり頑張っていた源三位入道頼政が、後白河天皇陛下の第2王子様を唆して令旨の発行に成功したのでございます。

その内容は、真に恐ろしい事柄でございます。

詰まり諸国に散らばる源氏系統に対して、平氏を打倒すると云う内容でございます。

源三位入道頼政は、平氏の横暴な政治に対して源氏の血を抑える事が出来なかったのでございます。

源三位入道頼政は、王子様に対して諸国に居る源氏系統の武士を紹介したのでございます。

俗に源氏揃いと云うのでございます。

源氏系統の武士は、1地域に固まっているのでは無く各地域にデタラメにばらばはに存在したのでございます。

この王子様の令旨は、源十郎蔵人行家と云う人物が配達して歩いたのでございます。

そして真っ先に王子様の令旨に反応したのが、源木曽患者義仲でございます。

その後源木曽患者義仲は、勢いがあり瞬く間に平氏を宮から追い出したのでございます。

しかしながら源木曽患者義仲は木曽の山奥暮らしでございます

当然の事ではございますが、公卿集団の規則に付いて行く事が出来なかったのでございます。

後白河天皇陛下は、どうにかして源木曽患者義仲を宮から追い出したいのでございます。

後白河天皇陛下は、鎌倉の源頼朝に、源木曽患者義仲を宮から追放するように要請したのでございます。

しかし源頼朝は、関東地区の武者を正す予定はなかったのでございます。  

そこで後白河天皇陛下は、考えたのでございます。

詰まりは院の北面の武士比叡山延暦寺の僧兵や三井寺の僧兵や宮の喧嘩好きなあんちゃん連中はを招集したございます。


正式な軍事集団の源木曽患者義仲の軍勢に対して、街の喧嘩好きなあんちゃん連中が敵うわけがなかったのでございます。

しかしながら源木曽患者義仲は関東地区から宮に入り込んだ源九朗判官義経が率いる軍勢に追い出されたのでございます。

源木曽患者義仲は、最初は5万騎馬で京都に入ったのでございます。

しかし源九朗判官義経が宮に入ると、源木曽患者義仲の陣営から源九朗判官義経の陣営に鞍替えする武士が数多存在したのでございます。

源九朗判官義経に従う武者は5万騎馬でございます。 

一方で源木曽患者義仲に従う武者は、三百騎馬でございます。

源木曽患者義仲は、5万騎馬の軍勢に対して勇ましく合戦したのですが多勢に無勢でございます。

源木曽患者義仲の軍勢は、三騎馬まて減じていたのでございます。

源木曽患者義仲と愛人で女武者巴御前と、今井四郎兼平と云う武者でございます。

今井四郎兼平は、誰しも認める勇士でございます。

今井四郎兼平は、源木曽患者義仲に自害する事を勧めたたのでございます。

ところが源九朗判官義経の陣営に、源木曽患者義仲とは因縁のあいて武田源氏の代表者一条二郎の軍勢が現れたのでございます。

木曽と甲斐国は隣国同士でございます。

毎回のように地境問題で揉めていたのでございます。

そこで源木曽患者義仲は、1人甲斐源氏の軍勢に突入したのでございます。

そして名も判らない患者原の武者に討取られてしまったのでございます。