令和4年2月12日の事【3】

太平記の序文は、源平合戦に勝利した源頼朝が4位の下からいきなり正2位兼務武官の最高職近衛府の右大将に就任した事。

そして源頼朝は、何と我が國66ヵ國に守護職【治安維持&税の徴収】を置く事に加え荘園に地頭職を置く権利を要求したのでございます。

しかしながら各國には、朝廷から派遣された国司が警察権や税金の徴収権を担っていたのでございます。

源頼朝は、一様は武家貴族階級でございます。

しかしながら貴族とは云っても基本的には暴力集団の大将でございます。

そこで源頼朝は、舅殿の北条時政を京都に派遣して交渉したのでございます。

北条時政は、人望が有り交渉事は得意分野でございます。

そして後白河天皇陛下も、強大に膨れ上がった鎌倉幕府の要求を呑むしか方法はなかったのでございます。

以前に源木曽患者義仲と合戦した際には、近衛府の侍や比叡山延暦寺の僧兵や三井寺の僧兵そして町のならず者【あんちゃん連中】をかき集めて挑んだのでございます。

しかし源木曽患者義仲の軍勢は専門の軍事集団でございます。

一方で後白河天皇陛下が招集した軍勢は、町中のならず者【あんちゃん連中】でございます。

結果は、後白河天皇陛下方の総大将が真っ先に戦場から逃げ出した為に朝廷方は総崩れとなったのでございます。

後白河天皇陛下は、源頼朝の要求を全面的に受け入れたのでございます。

その上に朝廷に反抗する輩を討伐する最高責任者征夷大将軍にも指名されたのでございます。

此れによりて源頼朝は、鎌倉に幕府を創設したのでございます

しかしながら後々には、守護職国司&地頭職と荘園領主の合戦が頻発したのでございます。

守護職と地頭職は、基本的には暴力集団でございます。

幾ら有力な寺や神社の荘園でも僧兵と武士が合戦しても、武家の勝利は確定でございました。

この武家の横暴に立ち向かった天皇陛下が、後白河天皇陛下の御孫の後鳥羽上皇陛下でございます。

しかしながら北条政子北条義時兄弟が、鎌倉御家人に大演説をぶっ放して源頼朝の意向を伝えたのでございます。

鎌倉御家人にとっては、後鳥羽上皇陛下に反旗を翻す事はバチ当たりな行為に該当するのでございます。