朝入酸素運動は8割は達成でございます。
朝筋肉トレーニング&体操は8割は達成でございます。
親鸞先生バンザイ🙌でございます。
法然先生バンザイ🙌ございます
我が家の再興&復興は間違い無しでございます。
我が事業の再生は間違い無しでございます。
今回から基本的には、一日一膳に因みブログ書きは1つに絞り込む予定でございます。
源頼朝と13人の仲間たちの中に、近江國の住人佐々木4兄弟が入っていないのでございます。
近江國の佐々木家は、源頼朝と同じ源氏系統の家筋でございます。
しかしながら源氏系統でも、宇多天皇陛下から源氏の姓を賜り臣下に下った家筋の人でございます。
この佐々木4兄弟は、誰しも劣らない勇士でございます。
佐々木4兄弟の祖父の代から源為義の養子となり、源氏に忠実に奉職していた人物でございます
源為義の嫡男源義朝だけが、辛うじて源氏系統の立場を守り抜いたのでございます。
しかし源義朝は、官職は右馬守兼務五位でございます。
一方で平清盛は、3位上中兼務太宰府の大弐職に指名されたのでございます。
焦った源義朝は、軍勢をかき集めて平清盛の館に夜討ちを仕掛けたのでございます。
京都の街中に張り巡らせたネットワークにより、未然に源義朝の夜討ちを察知していたのでございます。
源義朝の軍勢は、やけくそ状態に陥り平氏の軍勢の中に突入して行ったのでございます。
しかし平氏の軍勢を討ち破る事が出来ず、元家臣の尾張國知多半島の地主長田氏を頼ったのでございます。
ところが長田氏は、源義朝が風呂に入っている時に騙し討ちにしたのでございます。
この時に源義朝と一緒に風呂に入っていた佐々木氏も、パンツを履く事が出来ず討死したのでございます。
この時以降は、源氏の嫡流源頼朝は伊豆國に流し者になったのでございます。
佐々木4兄弟も、源頼朝と一緒に伊豆國の配所に付き従ったのでございます。
そして源頼朝の為に、身体を犠牲にして生活の糧を稼ぐ為に狩りや農業で源頼朝の生計を維持したのでございます。
そんな時に主君筋源頼朝が、北条時政や文覚上人の口車に乗り平氏打倒の旗を立てたのでございます。
この源頼朝の旗揚げの陣に真っ先に馳せ参じたのが、佐々木4兄弟でございます。
そして源氏の軍勢が、京都に進軍する時に佐々木4兄弟の末佐々木定綱を呼び付けて源頼朝の愛用していた名馬を下さったのでございます。