令和4年1月26日の事【5】

足利尊氏の母君は、武家貴族階級の上杉家でございます。

足利尊氏は、最初は後醍醐天皇陛下に協力的でございました。

ところが建武の新政と云う斬新な政策を打ち出すに従い、ある一定の武家には恩賞が厚く一定の武家には恩賞が薄かったのでございます。

恩賞が厚かった武将は、楠正成でございます。

河内國と摂津國の2カ国の国司に指名されたのでございます。

また名和長年なども、伯耆國の国司に指名されたのでございます。

そして源氏系統の新田義貞なども、越後國と上野國の2カ国の国司に指名されたのでございます。

一方で赤松円心などは、鎌倉時代には播磨國の守護職を拝命していたのでございます。

ところが播磨國の1地域の地頭職に格下げになってしまったのでございます。

そして足利家の恩賞も、増えも減りもしない状況でございました。

赤松円心は、後醍醐天皇陛下から頂いた領地と地頭職を返還して播磨國に引き籠ってしまったのでございます。

その途中に足利尊氏の館に寄り朝廷方として命懸けの合戦をした事を後悔していると弱音吐いたのでございます。

やはり武家の気持ちは、武家の棟梁各の人しか理解出来無いのでございます。

もしも足利尊氏殿が、軍勢を催す時には真っ先に馳せ参じましょうぞと云って播磨國に引き込んだのでございます。

そして足利尊氏が、新たな天皇陛下を担いで後醍醐天皇陛下に謀反を起こしたのでございます

その時に真っ先に馳せ参じた武将が、赤松円心でございます。

足利治部太夫尊氏は、赤松円心の手を握り締めて嬉しく思いますと云ったのでございます。

この赤松円心の奉公に対しては足利治部太夫尊氏は足利一門衆ではなかったが赤松家を四職に任命したのでございます。

また播磨國だけでは無く備後國と備前國の3カ国の守護職大名に指名したのでございます。

ところが室町将軍家に御恩を受けたにも関わらず、室町将軍職を赤松円心の子孫は暗殺したのでございます。

この暗殺事件以降は、室町幕府の力も衰えて地方の守護職大名が勃興したのでございます。