令和4年1月20日の事【2】

歯痛の治療で千葉県九十九里浜海岸通りの歯科医に来ているのでございます。

やはり千葉県千葉市に移住したからと云って右も左も判り兼ねるのでございます。

そこで我が館の見聞を兼ねて、行き付けだった歯科医に来ているのでございます。

筋肉トレーニング&体操は完璧でございます。

3キログラムのダンベルの上下運動の二百回の実行したのでございます。

朝入酸素運動は、30分間の散歩でカバーしたのでございます

朝我が宗派浄土真宗本願寺派の読経の実行でございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然上人バンザイ🙌でございます。

我が先祖の御家再興&復興間違い無しでございます。

まだ間に合いのでございます。

我が事業の成長間違い無しでございます。

武家貴族は、大きく分けて源氏系統と平氏系統と藤原氏系統に別れるのでございます。

源氏系統には、宇多天皇陛下や嵯峨天皇陛下の系統など各天皇陛下親王殿下の子孫が皇室を離れる祭に源氏の姓を賜って臣下に下るのでございます。

あの室町幕府を創設した足利治部太夫尊氏に、終生付き従った武将佐々木判官道誉は宇多天皇陛下の子孫であり宇多源氏系統でございます。

この佐々木判官道誉の先祖は、源頼朝の先祖の代から源氏系統の武者として働いたのでございます。

そこで源頼朝が父親源義朝平清盛との合戦では佐々木秀吉と云う武将は、源義朝を逃がす為に自ら身代りになり討死した武将でございます。

源頼朝が、伊豆國に流し者になった時にも討死した佐々木秀吉の息子たちは源頼朝に付き従い伊豆國で暮らしていたのでございます。

佐々木家の領地は、近江國でございます。

しかし主君筋源義朝が、平清盛との合戦に打ち負けたので近江國は比叡山延暦寺の領地になってしまったのでございます。

そして源平合戦に勝利した源頼朝は、伝来の家臣筋佐々木家の恩賞として何と10カ国の守護職に指名したのでございます。

また佐々木家の長男には、当然の事ではございますが近江國の守護職に指名したのでございます。

この源頼朝の沙汰に対して不満を述べたのが比叡山延暦寺でございます。

しかし源頼朝は、武家の棟梁各として家臣筋の地位や領地の保全する義務が存在したのでございます。

そこで源頼朝は、比叡山延暦寺の意向を退けて佐々木家を近江國の守護職に指名したのでございます。

この佐々木家の子孫に、足利治部太夫尊氏に終生付き従った武将が佐々木判官道誉と云う一級中の婆娑羅大名でございます。

他にも婆娑羅大名は存在したのでございます。

美濃源氏の多治見氏や同じ系統の土岐氏など、婆娑羅振りを堪能していたのでございます。

しかし多治見氏も土岐氏も共に婆娑羅振りが中途半端でございました。

そこで鎌倉幕府執権職北条家の執事職長崎氏に目を付けられてしまい討伐されてしまったのでございます。

一方で佐々木判官道誉は、鎌倉幕府の執事職長崎氏にも賄賂などを贈り付けて上手く対応していたのでございます。

そこで佐々木判官道誉は、鎌倉幕府の要職にも就任する。

また華道や茶道にも優れていた為に、貴族階級とも親しく付き合っていたのでございます。

要するに佐々木道誉は、婆娑羅大名でございます。