楠兵衛尉正成の事

鎌倉幕府執権職北条氏は、8代執権職北条時宗までは相模守兼従四位以上の官職を所望する事はございませんでした。



ところが9代以降の執権職北条氏は、2代執権職北条義時の遺訓を忘れてどんどん官職を所望するようになったのでございます。



そして最後の執権職北条高時闘犬にうつつを抜かし、政治は執事職長崎氏に丸投げしていたのでございます。



執事職長崎氏は、政治を私的に悪用して自分自身の領地を増やす事に腐心していたのでございます。



この執事職長崎氏の政治に反発したのが、鎌倉幕府外様大名でございます。



外様大名の代表者足利尊氏は、外様大名の意見書を長崎氏に提出した。



しかし長崎氏は、執事職の立場でありながら足利尊氏の意見書を却下したのでございます。



鎌倉幕府の執権職北条高時は、闘犬に熱中して政治は執事職長崎氏に任せきりであった。



長崎氏は、執権殿の命令だと云って自分自身の領地拡大に腐心していたのでございます。



そんな時宮では、後醍醐天皇陛下が鎌倉幕府の倒幕に諸国の武士団を掻き集めていたのでございます。



後醍醐天皇陛下の命令に賛同したのが、楠兵衛尉正成と云う武士でございます。



楠兵衛尉正成は、一様は先祖は鎌倉幕府御家人でございます



しかし財政破綻を来たし、機内地区で荷役業者組合の組合長として職務を全うしていたのでございます。



鎌倉御家人たちは、北条高時の命令には一様は従う素振りを見せていたのでございます。



しかし鎌倉幕府が宮の治安維持に派遣した足利尊氏は、派遣軍勢の総大将として足利一門衆の領地三河国で攻め込むのは鎌倉幕府出先機関六波羅探題であるぞと下知を下したのでございます。



足利尊氏に従う武士団たちは、足利尊氏の演説に対して反対する武士は皆無であり拍手喝采の熱気で包まれていたのでございます。



特に近江国守護職佐々木判官道誉と云う人物は鎌倉幕府の目付役でありながら手放しで礼賛したのでございます。



そして10万騎の軍勢が、京都の六波羅探題に攻め込んだのでございます。



すると六波羅探題に勤務していた武士たちも方向転換して足利尊氏の軍勢に加勢したのでございます。



此れを聴いた北条高時長崎円喜は云ったのでございます。



足利尊氏に従う武士は、皆源氏ぞよと。


要すに京都に派遣した軍勢の人選を誤ったのでございます。