令和4年1月22日の事【2】

私自身が武将連中の中で一番に好きなタイプの妻【女子】は、ダントツに山内一豊の妻ちよでございます。

山内一豊は、織田家でも織田上総介信長の家筋では無く岩倉織田家の執事職の家筋の人でございます。

山内一豊の主君筋岩倉織田家は同じ一門衆ではございますが一段下の織田上総介信長の軍勢に敗北したのでございます。

山内一豊は、主君筋殺しの織田上総介信長を討ち滅ぼす為に尾張國は清洲の城下に家臣筋二人と潜伏していたのでございます

そして織田上総介信長を討ち死果しす絶好の機会が巡って来たのでございます。

山内一豊は、家臣筋二人と共に織田上総介に槍を突き刺したのでございます。

ところが織田上総介信長は、勇者山内一豊の槍を払い退けたのでございます。

山内一豊は、槍の使い手でございます。

その槍を身軽に織田上総介信長は、払い退けたのでございます

この織田上総介信長の器量に圧倒された山内一豊は、その場にひざま付き家臣筋にして下さいと懇願したのでございます。

織田上総介信長は、能力重視で家臣筋を採用する事で知られた武将でございます。

山内一豊の槍をかわしたものの槍の使い手であると見抜いていたのでございます。

織田上総介信長は、即答で山内一豊を採用したのでございます

そして木ノ下藤吉郎秀吉の家臣筋に編成したのでございます。

山内一豊は律儀者でございます

主君筋木ノ下藤吉郎秀吉の指示には、自分自身の命を掛けて働いたのでございます。

しかし木ノ下藤吉郎秀吉は思っていたのでございます。

山内一豊は、勇猛果敢な武将ではあるが要領が悪く機転が良く無い所があると見抜いていたのでございます。

そこで浅井長政の家臣筋であるちよと云う女子を妻に娶るように設定したのでございます。

このちよは、ご主人様山内一豊とは違い機転の効く女子でございました。

また山内一豊は、ちよ以外の女子には目もくれず一途にちよ命を貫き通したのでございます。

しかしちよは、山内一豊の子供を産む事が出来なかったのでございます。

しかし山内一豊は、ちよ一筋でございます。

そしてちよの指導に従い関ヶ原の戦いでは、徳川家康の陣に名刺入れを提出したのでございます。

そして最終的には、土佐國25万石の國主に納まったのでございます。

世の中の人々は云ったのでございます。

山内一豊は、妻ちよの運の良さと機転の良さによりて土佐國の國主に就任する事が出来たのであるぞ。

私自身も、山内一豊の妻ちよのような聡明な新妻を持ちたいものでございます。

すると我が家の再興&復興も思いのままだと考えるのでございます。