令和4年2月5日の事【2】

我が家の宗派浄土真宗本願寺派は、あの魔王のような織田上総介信長に宗教家として合戦を挑んだ人物でございます。

各地域の一向宗門徒に号令を掛けたのでございます。

すると各地域の一向宗門徒は、庶民階級だけでは無く武士階級の人々も織田上総介信長に合戦を挑んだのでございます。

その一向宗門徒の中には、何と織田上総介信長の家臣筋や徳川家康の家臣筋の武士も一向宗門徒として主君筋と合戦したのでございます。

織田上総介信長や徳川家康の家臣筋の武士は、主君の弱味を熟知していたのでございます。

そこで織田上総介信長も徳川三河守家康も、一向宗門徒との合戦では苦戦を強いられたのでございます。

一向宗門徒たちは、死にたいと思う庶民筋の人々が主たる主力部隊でございます。

とにかく南無阿弥陀仏を唱えながら、武士に突入して来るのでございます。

織田上総介信長や徳川三河守家康の家臣筋も、一向宗門徒は本格的な僧侶ではございませんが神仏が乗り移っている人々ばかりでございます。

一瞬斬り殺す事を躊躇するのでございます。

その怯んだ時に負ける相手では無い、一向宗門徒に斬り殺されてしまうのでございます。

軍事集団の武士階級が、庶民階級の一向宗門徒に簡単に斬り殺されてしまうのでございます。

当時の人々は思ったのでございます。

やはり阿弥陀仏が、織田上総介信長の所業に対して天罰を与えているのだと上も下も囁やきあったのでございます。

しかしながら一向宗門徒たちは織田上総介信長の軍勢に最終的には敗北するのでございます。

豊臣秀吉に至っては、一向宗の土地を摂取して代替地を京都に与えたのでございます。

そして大阪府の土地は、まんまと豊臣秀吉の城🏯である大阪城を建築したのでございます。

次の天下を掌握し偽造家系図を作成して、まんまと源氏系統の家筋となり征夷大将軍💟の椅子を射止めたのでございます。

因みに征夷大将軍には、源頼朝以降は源氏系統の家筋の人でなければ朝廷からの認可が出なかったのでございます。

徳川三河守家康は、三河國の守護職からいきなり征夷大将軍💟職を拝命したのでございます。

そして三河一向宗一揆の経験から、一向宗西本願寺派東本願寺派に分断したのでございます。

とにかく南無阿弥陀仏門徒は、修行事態が南無阿弥陀仏を唱えるだけでございます。

そこで街中のならば者【あんちゃん連中】でも、念仏を唱える事で佛になれるのでございます

私自身も、先祖の主君筋鍋島弾正忠家が西本願寺派の大谷氏と仲が良かったのでございます。

そこで徳川幕府の命令により檀家制度が創設された後には、我が先祖の主君筋鍋島弾正忠家は浄土真宗本願寺派西を選択したのでございます。

因みに戦国時代までは、鎌倉時代から我が家の宗派は比叡山延暦寺天台宗だったのでございます。

しかし武家階級に人気がある宗派は、禅宗の中でも臨済宗がランキング入りしていたのでございます。