令和4年2月17日の事【3】

室町時代足利治部太夫尊氏が、後醍醐天皇陛下に反旗を翻した頃に流行った風俗に婆沙羅が存在するのでございます。

婆沙羅は、時の風俗や習慣や常識に囚われる事無く自分自身が思う通りな振る舞いをする事でございます。

婆沙羅大名で有名な人物は、近江國の守護職を拝命していた佐々木判官道誉でございます。

また土岐氏と云う、美濃國の守護職を拝命する人物でございます。

また土岐氏の一門衆であり、岐阜県多治見市辺りを領地にする多治見氏でございます。

その他小物である婆沙羅大名は数多存在したのでございます。

ところが土岐氏と多治見氏は、後醍醐天皇陛下の鎌倉幕府倒幕運動に我こそは婆沙羅大名であり鎌倉幕府執権職殿に楯突く事は婆沙羅大名としては当然の事柄と公然と云っていたのでございます。

一方で婆沙羅大名佐々木判官道誉は、最初は後醍醐天皇陛下に味方していながら手のひらを返すように鎌倉幕府執権職北条得宗家に寝返ったのでございます 
 

土岐氏と多治見氏は、我こそは婆沙羅大名の筆頭各だと云って鎌倉幕府得宗家に反旗を翻したのでございます。

鎌倉幕府は、直ぐに美濃國に軍勢を派遣したのでございます。

土岐と多治見は、抵抗しましたが多勢に無勢でございます。 

捕らえられて首🐴を斬られたのでございます。

一方で婆沙羅大名佐々木判官道誉は、何と鎌倉幕府の逮捕の執行役員として仲間だった土岐と多治見を逮捕する側に居たのでございます。

土岐氏と多治見氏は、中途半端に婆沙羅大名として気取った為に身を滅ぼす事になったのでございます。

一方で婆沙羅大名筆頭各佐々木判官道誉は、婆沙羅やりながら身軽に立場を入れ替えして生き延びたのでございます。

当時の婆沙羅大名としての絶対条件は、行き延びる事でもございました。