鎌倉幕府の筆頭御家人であり源氏の氏の長者足利治部太夫尊氏は、父親の前で話しを聴いていたのでございます。
足利治部太夫尊氏の祖父は、元々は格下である鎌倉幕府執権職北条家に謀反の罪で自害に追い込まれてしまったのでございます。
その死ぬ直前に、足利治部太夫尊氏の父親を呼び出したのでございます。
我々は源義家公の嫡流家であり北条家のような桓武天皇陛下の子孫だと云って威張っているが家系図も偽造するような家筋である。
その北条家から、我は謀反の疑いを掛けられて切腹まで追い込まれてしまった。
我には北条家を討つ覚悟がなかった。
しかしお前は、北条家の政治が横暴を極めると思った時には武家の棟梁家として諸国の武家を束ね北条家を討てと云われた。
ところが我にも、北条家を討つ覚悟がなかった。
我が動けば、諸国に散らばる足利家一門衆の皆が動くのだ。
その数は、女や子供を合わせると万の数である。
しかし我には、北条家の悪政を観ていながら足利家一門衆の将来性を考える余りに立つ事も出来ずただ足利家の家名を守るだけで精一杯だった。
尊氏よ。父親のように迷うなぁ北条家の悪政を糺す必要性があると思う時には迷う事無く諸国の足利家一門衆を結集して武家の棟梁家としての責任を果たしてくれと諭したのでございます
足利治部太夫尊氏は、覚悟を決めたのでございます。
父親が死んだ後に、足利治部太夫尊氏は諸国の源氏どもに対して北条家討伐の命令書を発行したのでございます。
その命令書に対して各地域の武家が、足利治部太夫尊氏の陣に馳せ参じたのでございます。
特に婆沙羅大名の佐々木判官道譽などは、北条家と深く付き合いながらも北条家を見限り足利治部太夫尊氏の陣に参陣したのでございます。
因みに我が先祖も、九州地区佐賀から足利治部太夫尊氏の陣に参陣したのは当然の事でございます。
だから我が先祖は、再度九州地区佐賀の地頭職に指名されたのでございます。