令和4年2月4日の事【1】

鎌倉幕府から信濃國の守護職は小笠原氏と云う源氏系統の人物でございます。

小笠原氏は、源頼朝に加勢して各地域の守護職を歴任した家筋の人物でございます。

小笠原氏が、瀬戸内海に面した安芸の国の守護職を拝命した時の事柄でございます。

瀬戸内海は、水上交通機関が発達していたので武家と云いながら海での合戦を得意分野とする武士団が数多存在したのでございます。

その中でも最も実力派だった武家が、村上水軍の集団でございます。

村上水軍の先祖は、村上天皇陛下のお子様でございます。

しかし京都には、官職の空席状況が無く村上源氏と云う姓を頂いて臣下に下ったのでございます。

源氏系統でも、清和源氏村上源氏文徳源氏&佐々木源氏などの系譜の家筋が数多存在するのでございます。

あの室町時代に活躍した婆沙羅な大名の筆頭各佐々木判官道譽などは宇多天皇陛下を先祖に仰ぐ家筋の人物でございます。

小笠原氏は、安芸の国の守護職を拝命した時に海の合戦に手馴れた武将が居ないか探していたのでございます。

そんな時に探し出したのが、村上水軍でございます。

早々と小笠原氏は、村上水軍の一人を家臣筋に召抱えたのでございます。

この家臣筋は、水軍の武士と云う事で海に関する機関の隊長としての任務遂行を頼んだのでございます。

ところが源頼朝から、小笠原氏に対して信濃國の守護職に移動するようにと命令書が発行されたのでございます。

小笠原氏は、家臣筋を招集して事柄の次第を話したのでございます。

ほとんどの家臣筋は、小笠原家の代々の家臣筋の家でございます。

しかし村上家だけは、安芸の国村上水軍の家筋の人物でございます。 

信濃國と云うと、雪深く山奥の海とは真反対の國でございます

村上家では、村上水軍の頭筋にも相談したのでございます。

しかし主君筋小笠原氏の人柄に心髄していた村上家は、心機一転信濃國の転勤族を決意したのでございます。

その後小笠原氏の本来的な主君筋源頼朝と云う人物が死去した後には、自分自身より格下の北条相模守兼務五位下中が鎌倉幕府の執権職として実質的な実力者として君臨したのでございます。

小笠原氏も、信濃國の守護職は拝命したものの長年に渡り信濃國の守護職で過ごしたのでございます。

村上家も、主君筋小笠原家から信濃國に領地を頂き以降は信濃國の有力者として過ごしたのでございます。

戦国時代には、あの猛将武田信玄や父親武田信虎信濃國進行を阻止したのでございます。 

村上家では、主君筋小笠原家よりも武勇に優れていたのでございます。

しかし村上家では、実力派でありながらも生涯小笠原家の家臣筋の家の立場をわきまえて生きて行くのでございます。

我が先祖の家筋を根こそぎ乗っ取った鍋島弾正忠家にも考えて貰いたいのでございます。