令和4年1月29日の事【1】

足利治部太夫尊氏は立ったのでございます。

鎌倉に残して来た愛しい妻や息子たちを助ける為に足利治部太夫尊氏は立ったのでございます

鎌倉では、倒産した鎌倉幕府の執権職北条高時の遺児が信濃國に逃げ延びていたのでございます。

ところが息を吹き返した北条家残党が、徒党を組んで鎌倉に攻め込んで来たのでございます。

足利治部太夫尊氏は、後醍醐天皇陛下に対して可愛らしい妻や息子や足利家の家臣筋を助ける為に征夷大将軍💟を所望したのでございます。

しかし征夷大将軍💟と云えば、武家の棟梁としての資格取得であり鎌倉幕府の到来と同じ意味合いが存在したのでございます

当然の事でございます。

後醍醐天皇陛下以下公卿集団は足利治部太夫尊氏に対して征夷大将軍💟の官職を与える事はしなかったのでございます。

足利治部太夫尊氏は、悲嘆な気持ちで足利館に帰ったのでございます。

すると足利家執権職高師直を初め、武闘派の武家白拍子を呼んで酒宴を催していたのでございます。

足利治部太夫尊氏は、足利家執事職高師直に問いただしたのでございます。

師直よ、この騒ぎは一体何事であるかと叱り付けたのでございます。

ところが執事職高師直は、主君筋足利治部太夫尊氏に云ったのでございます。

我が親類縁者は、北条家残党に敗北して安否も定かではございません。

我々足利家一門衆は、皆々が関東地区に出陣して親類縁者を助けたいと思っているのでございます。

しかし殿様は、我々足利家一門衆の気持ちよりも公卿集団の気持ちを汲んでいらっしゃいます

そこで足利家執権職高家の大将職として、足利家一門衆の人々と共に討死した親類縁者の弔いをしているのでございます。と云ったのでございます。

足利治部太夫尊氏の気持ちの整理整頓は決着したのでございます。

足利治部太夫尊氏は、諸国の武家に対して鎌倉の北条家残党を討ち滅ぼすと云う号令を発したのでございます。

その号令に真っ先に馳せ参じた武将は、あの播磨國の守護職から地域の地頭職に格下げと云う不当な人事に遭遇した赤松円心でございます。

また華道や和歌の会合に明け暮れていた婆沙羅大名の佐々木判官道誉でございます。

佐々木道誉は、足利治部太夫尊氏に云ったのでございます。

我も華道や和歌などの文化活動には飽きてしまったようだ。

我々は、本来的には合戦を生業にしている武家でございますぞ。

足利治部太夫尊氏殿が、何時になったら合戦を始めるか待ちくたびれたと云ったのでございます。

今回の出陣は、朝廷の意向を無視した事柄であるぞ。

そこで佐々木判官道誉殿も、ただ働きになるかもしれないと云ったのでございます。

佐々木判官道誉は、足利治部太夫尊氏に云いました。

其れは足利治部太夫尊氏殿が幕府を創設すれば解決する事柄でございますぞと。

その後足利治部太夫尊氏は、室町将軍職として幕府を創設したのでございます。

そして佐々木判官道誉の一門衆は、10ヵ國の守護職に指名されたのでございます。