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鎌倉幕府執権職北条家は、伊豆國の弱小豪族でございました。
源頼朝が、平氏打倒の軍勢を催した時に北条時政がかき集めた軍勢は五十騎馬程度でございます。
北条家と云う武士は、それ程度の武士でございます。
一方で源頼朝の軍勢が、平氏方の軍勢に散々に打ち負かされて上総國に逃げ込んだ時に源頼朝を出迎えた上総介の軍勢は何と5万騎馬の軍勢でございます。
しかしながら北条時政と云う人物は、近隣諸国の武士団に人望があったのでございます。
相模國の三浦介や下総國の千葉介などは、毎日のように北条家に遊びに来て雑談していたのでございます。
北条家は、流人生活源頼朝の監視員を命じられたのでございます。
監視員を命じられた時には、源頼朝と平氏打倒の軍勢を催す事など考えてはなかったのです。
しかし北条時政の娘政子が、武家貴族源頼朝の運を引き連れてくれたのでございます。
その後には北条家一門衆が、親類縁者が協力して関東地区の大大名を騙し討ちや夜討ち毒殺などあらゆる手段を講じて政敵を潰して行くのでございます。
そして北条家自らは、鎌倉幕府1の御家人でありながら官職は相模守以上の職を望む事はなかったのでございます。
また朝廷から頂く官位に関しても、4位より以上は辞退していました。
その理由は、他の鎌倉御家人から目を付けられないようにする為でございます。
鎌倉御家人足利治部太夫尊氏などは、筆頭御家人であり官位も4位の上であり北条家得宗家よりも高いものでございます。
また朝廷に対しても、実力者でありながら畏まって奉職していたのでございます。