令和4年3月7日の出来事💋❤

朝入酸素は今からでございます。

朝筋トレは8割は実践したのでございます。

朝我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経は百%は実践したのでございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然先生バンザイ🙌でございます。

我が家の再興は間違い無しでございます。

我が事業の成功は間違い無しでございます。

源頼朝と13人の仲間たちは面白かったのでしょうか?

源平合戦に参陣した関東地区の武者は、基本的には平家に直接的な恨み節から合戦に参陣したのでは無いのでございます。

東武者の面々は、基本的には開発領主でございます。

自分自身の一家一門衆皆で開拓した領地を、権限ある機関に安堵【所有権保存登記】をして貰う為に合戦に参陣したのでございます。

最初は平清盛政権に期待したのでございます。

しかしながら平氏政権は、武家貴族の身分を忘れて生え抜きの貴族の真似事をしてしまったのでございます。

関東地区の武士団は、平氏政権に失望してしまったのでございます。

しかし平氏は、武家貴族でございます。

詰まりは軍事集団の団体でございます。

易易と平氏政権に不満が存在したとしても、関東地区の武士団が平氏打倒の旗揚げをする事など不可能でございます。

そんな武士団の不満が溜まっていた時に、同じ武家貴族階級の源頼朝が伊豆國に流し者として赴任して来たのでございます。

関東地区の武士団は、平氏と同じ立場の源氏系統の源頼朝に期待したのでございます。

しかし源頼朝は、父親源義朝と兄弟縁者と一緒に参加した平治の乱で大敗を喫していたのでございます。

その時に本来的には、戦争に参加していた源頼朝は斬首されても良かったのでございます。

しかし平清盛の恩情によりて、命を助けられていた関係上平氏打倒の旗揚げする事をためらっていたのでございます。

しかし関東地区の武士団たちと付き合う中で、関東地区の武士団の要望と平氏政権の乖離を実感したのでございます。

そこで伊豆國の小豪族北条時政の娘を唆して、北条時政の軍勢を当てにして平氏打倒の旗揚げをしたのでございます。

ところが小豪族の北条時政がかき集めた軍勢は50騎馬程しか参陣する事しか出来なかったのでございます。

源頼朝は、散々に打ち負かさて伊豆國の対岸上総國の大大名上総介を頼りに逃げ込んだのでございます。

そして上総介は、5万騎馬の軍勢を引き連れて源頼朝の陣に参陣したのでございます。

源頼朝が引き連れていた軍勢は5騎馬でございました。

北条家と云うのは、其れ程度の武士でございます。

しかし関東地区の武士団の平氏政権に対する不満は頂点に達していたのでございます。

源頼朝は、5万騎馬を引き連れて来た上総介を叱り付けたのでございます。

この源頼朝の対応に対して、上総介は源頼朝こそ武家貴族の大将だと自覚したのでございます

この関東地区の大大名上総介が源頼朝に付き従った事で関東地区の武士団は我も我もと云って源頼朝の陣に参集して来たのでございます。

源頼朝の軍勢は、関東地区を廻りながら鎌倉に到着した時には20万騎馬の軍勢に膨れ上がっていたのでございます。

この軍勢の数は、平氏の軍勢よりも数多な数でございます。

源頼朝の軍勢の中では、源頼朝と13人の仲間たちの武士は代表者となる人物でございます。

しかし源頼朝が亡くなると、北条義時と姉君北条政子の連携により騙し討ちや夜討ちや毒殺などの武士の倫理観に反する行為で潰して行くのでございます。

そして北条義時は、官職は相模守兼務4位でございますが実質的には鎌倉幕府の執権職として実権を掌握したのでございます