令和4年1月17日の事【3】

源頼朝が、平氏打倒の軍勢を催した時に朝廷や生え抜きの公卿たちに奉職する為に京都に在京していた武士が存在したのでございます。

関東地区の宇都宮氏&畠山氏&三浦介でございます。

京都では地方の有力者を懐柔する為に、3年に一度のペースで武官の官職を与えると云う名目で在京させたのでございます。

宇都宮&畠山&三浦介も、本来的には源頼朝方の武士団として平氏打倒の陣に参加したかったのでございます。

しかし父親たちを人質として京都に捕らえられている為に、仕方無く平氏方の武士として源頼朝討伐軍に参加したのでございます。

平清盛は、宇都宮&畠山&三浦介を呼び出して起請文を要求したのでございます。

そして畠山氏が、平清盛に云ったのでございます。

流人源頼朝と仲が良い北条氏辺りは、源頼朝の謀反に加担するかもしれません。

しかし関東地区の武士団のほとんどが、平清盛様から数多の恩恵を受けているのでございます

また関東地区の大小の武士団は坂東平氏の流れを汲む一門衆ばかりでございます。

と気持ちは坂東に有りながら、嘘を並べ立てたのでございます

平清盛の息子で内大臣兼務武官の最高職近衛府の右大将平宗盛は云ったのでございます。

この武士団は、我々と先祖は同じ平氏流であるぞ。

当主を人質にすれば、関東地区の息子たちも平氏方の武士として振る舞うに違い無いと云ったのでございます。

しかし平氏の総大将宗盛は、眼つきの悪さや隙の無い振る舞を怪しんでいたのでございます。

案の定三年間勤務時間を終了した宇都宮&畠山&三浦介は、反平氏方として源頼朝の陣に参陣したのでございます。

宇都宮&畠山&三浦介を、関東地区では大大大大名クラスの家筋でございます。

畠山家などは、武蔵國の集団武蔵七党に対して号令を出せる立場の大大大大名でございます。

宇都宮家も、一家一門衆の小山家や八田家などの有力者が揃って源頼朝に靡くのでございます

また三浦介家も、相模國の介の家柄の一門衆でございます。

この有力大名クラスが、源頼朝の陣に参陣した事で関東地区の武士団は皆々源氏に靡いたのでございます。

関東地区は、武士団だけでは無く草も木も源氏に靡いたのでございます。

平清盛は、死ぬ間際に一家一門衆を招集しては我が墓場の前に命を助けたにも関わらず謀反を起こした源頼朝の首だけを置いてくれと頼んだのでございます

平清盛は、武家出身者で初めて生え抜きの公卿を飛び越えて大政大臣従一位に就任した人物でございます。

しかし平治ノ合戦で、戦争に参加した源頼朝と幼い弟たちを助けた事が平家の命取りになったのでございます。

我が先祖も、有能な鍋島弾正忠家を家老職として据えた事が命取りとなってしまったのでございます。

悔しいです。

本来的には、佐賀藩の5百石取りの役職付の大臣でもおかしく無い家筋でございます。

しかし実際は、足軽大将で5石取りの藩士であり生活苦に悩んだ家筋でございます。