令和4年2月7日の事【1】

朝起きると、温度計がマイナス7℃でございます。

九州地区佐賀&長崎では、マイナスに気温がなる事は、滅多に無いのでございます。

気温が1℃に下がった暁には、死ぬほど寒い朝だと云います。

昨日の源頼朝と13人の仲間たちは、面白かったでしょうか?

私自身が鎌倉期に関東武者で好きな人物は、上総介と云う大豪族でございます。

あの武家貴族源頼朝が、三浦介や千葉介や北条辺りに唆かされて平氏打倒の兵を挙げたのでございます。

ところが関東地区の有力者三浦介や千葉介は、源頼朝の陣に馳せ参じるのが遅れたのでございます。

北条時政と息子北条義時は、焦りました。

北条家が招集出来る軍勢は、50騎がせいぜいでございます。

しかし平氏方の軍勢は、万単位の軍勢でございます。

ところが平氏方に味方する軍勢の中には、本来的には源氏方に味方したい武士も数多存在したのでございます。

源頼朝は、武家の棟梁家であり源氏の嫡流家でございます。

一旦平氏打倒の軍勢を催しながら、軍勢の数が少なすぎると云う理由で降参するような事は源氏の名に傷が付きます。

そこで源頼朝は、北条家程度の軍勢だけで平氏打倒の旗を挙げたのでございます。

しかしながら多勢に無勢でございます。

源頼朝の軍勢は、散々に討ち負かされて洞穴に身を潜目たのでございます。

すると平氏の軍勢が、洞穴に入って来るではありませんか。

源頼朝と北条家の軍勢は、此れで最後と覚悟したのでございます。

そして平氏方の梶原景時と云う武士が、源頼朝を見つけたのでございます。

ところが梶原景時は、此処には源頼朝は居ないと他の武士たちに嘘を云ったのでございます。

この梶原景時の先祖は、元々は鎌倉氏を名乗り源氏方の武将でございました。

また平氏政権に対して、坂東武者のほとんどが不満を抱えていたのでございます。

この好機を機転が効く、北条義時が見逃す事はなかったのでございます。

因みに北条家の嫡男は、今回の合戦で討死しているのでございます。

だから北条家の嫡男は、次男坊の北条義時が担う事に今後はなって行くのでございます。

北条義時は、源頼朝に進言するのでございます。

上総國には、上総介と云う関東地区の名門の大大名が存在します。

この上総介は、反平氏の武士でございます。

一旦は上総介殿を頼り、上総國に逃れる事が得策でございますと云ったのでございます。

源頼朝も、北条義時の沈着冷静な人物だと思っていたのでございます。

源頼朝は、早速に上総國に舟で逃げ出したのでございます。

上総國に到着した源頼朝を、上総介は五万騎馬の軍勢を引き連れて待っていたのでございます

一方の源頼朝方の軍勢は、10騎馬余りでございます。

また合戦に敗北して、鎧兜も脱ぎ捨てた惨めな有様でございます。

しかし源氏の象徴的存在である白旗と笹竜胆の家紋の旗だけは風に靡いていたのでございます

上総介は、武家の棟梁家源頼朝に対して、横着にも馬🐎の上から挨拶をしたのでございます。

また源頼朝の到着に対して、挨拶に来るのが遅かったのでございます。

源頼朝は、上総介に云ったのでございます。

上総介が、この武家の棟梁家で近衛府の左衛門佐兼務正4位源頼朝の陣に遅参するとは何事かと叱り付けたのでございます。

上総介は思ったのでございます

この御方こそが、本当の武家の棟梁家であり御大将の器であると自覚したのでございます。

そして上総介は、馬から降りて武家の棟梁家に対する礼儀作法に乗っ取り挨拶を改めて行ったのでございます。

この上総介も、平氏嫡流家の一門衆でございます。

関東地区の武士団の中では、礼儀作法をわきまえた武家の名門でございます。

この後には、上総介の軍勢五万騎馬を従えて関東地区を廻りながら鎌倉に入るのでございます

そして関東地区の武者は、大大名も少名も我も我もと源頼朝の陣に馳せ参じたのでございます

その数は30万騎馬に膨れ上がる勢いでございます。

関東地区の草も木も源氏に靡く勢いでございます。