令和4年2月17日の事【2】

貴族は肉体労働が無い為に、朝と夕の2食でございます。

一方で武士は、肉体労働をする為に朝と昼と夕方の3食でございます。

我が家の先祖は、藤氏でございます。

しかし藤氏の中では、京家が一番に繁盛する家筋でございます

我が家の先祖は、藤氏では一番繁盛しなかった南家でございます。

最初は京都の中での官職に指名される事も数多存在したのでございます。

ところが官職の空席状況が悪化した結果は、我が南家の人々に官職の呆れが無くなってしまったのでございます。

そこで地方の国府の役人を所望したのでございます。

最初の内には、地方の国司職や介職や大掾職などの空席状況があったのでございます。

しかし地方の国府でも、文官の官職の空き状況が悪くなり武官の官職しか就く事が出来なくなったのでございます。

また地方の國でも、大国の空き状況が悪くなり中國や小國の武官の官職しか無くなりました。

そんな時に下野守の任期満了した藤原秀郷は、京都に帰還する事無く下野國に住み続けていたのでございます。

詰まりは官職の空席状況が悪くなっていたのでございます。

そんな時に関東地区で平将門が謀反を起こしたのでございます

東武者は、京都では怖れられていたのでございます。

そこで関東地区の武士に対して平将門を討伐した者は、4位に就任させる旨の達示が示されたのでございます。

その達示に応募したのが、藤原秀郷でございます。

藤原秀郷ならば、武家貴族階級であり朝廷も安心安全でございます。

そこで朝廷では、藤原秀郷平将門の討伐軍の副大将に任命したのでございます。

そして藤原秀郷は、副大将の役割を果たした結果4位の貴族階級に復帰したのでございます。

その子孫が、私自身でございます。

だから私自身は、元貴族階級の家筋でございます。