令和4年1月6日千葉県千葉市の県庁所在地に移住致しました
次の目標達成は、東京都青梅市に移住する事でございます。
私自身は、佐賀の地頭職の家庭の子弟として育つたのでございます。
鎌倉幕府は、朝廷とは別に各国に守護職大名&荘園に地頭職を配置したのでございます。
我が先祖は、下野国の地主である藤原秀郷流の家柄でございます。
藤原南家は、一様は藤原不比等の子孫ではございますが冷遇され続け文官の官職には就任出来ず武官の官職で地方勤務者ばかりでございました。
そんな時に関東地区で、平将門が謀反を起こしたのでございます。
平将門は、関東地区の民人の為に関東地区の独立行政法人を創設しょうと考えたのでございます。
しかし京都の公卿集団は、平将門の独立開業を許す事は出来なかったのでございます。
そこで関東地区の武士団で、平将門を討伐する武将を募集したのでございます。
しかし平将門は、超人的な強さでございます。
間違って討伐軍の大将に名乗りを挙げると、自分自身が平将門に滅ぼされてしまいます。
そこで公卿集団は考えたのでございます。
平将門を討伐した暁には、公家の身分を付与する事にしたのでございます。
藤原秀郷は、元々は貴族階級の出身者でございます。
平将門は怖いのですが、貴族の仲間入りもしたいのでございます。
そこで平将門と従兄弟であり、坂東平氏の名門平貞盛を誘い込んだのでございます。
平貞盛は、藤原秀郷の誘いに乗り平将門討伐軍に参加したのでございます。
また鎌倉幕府を創設した源頼朝の先祖も、平将門討伐軍に参加したのでございます。
そして藤原秀郷は、平将門の討伐軍の副大将として指揮したのでございます。
藤原秀郷は、若い頃より武芸者としてならず者たちと喧嘩三昧の生活を実行したのでございます。
ところが喧嘩三昧の生活が、平将門討伐に活きていたのでございます。
そして平将門討伐軍の連合軍は平将門を滅ぼしたのでございます。
この藤原秀郷の子孫が、私自身でございます。
藤原秀郷は、4位の貴族階級に昇進し宮に移住したのでございます。
そして我が先祖は、宮から九州地区の大宰府の役人として赴任したのでございます。
そんな地方勤務の最中に、源平争乱が勃発したのでございます
我が先祖は、昼間は大宰府の役人として勤務を継続して夜中は源平争乱に参加したのでございます。
あの藤原澄友も、伊予国の介の勤務をこなしながら、夜な夜な海賊集団の頭として活躍したのでございます。
しかし我が先祖は、戦国時代には一時的には戦国大名に昇格したのでございます。
ところが鍋島弾正忠家に、家を乗っ取られてしまったのでございます。
そして我が先祖は、元々は家臣筋の鍋島弾正忠家の足軽大将5石取りの武士として生活したのでございます。