令和4年2月17日の事【1】

我が宗派浄土真宗本願寺派親鸞先生の師匠筋は、浄土宗の開祖法然上人でございます。 

この法然上人は現在の岡山県美作國の武家の家庭に育ったのでございます。

美作國の警察権を掌握する地方役人の責任者の身分筋の武家階級でございます。

一方で同じ役所で在りながら、徴税を担当する武家が居たのでございます。

法然上人の父親は、職務態度は真面目であり同僚である徴税担当の武家に税金をごまかす事は良くないと諭したのでございます。

この法然上人の父親の善意の行為を逆恨みした、徴税担当の武家は在る日に法然上人の父親の館に夜討ちを仕掛けたのでございます。

法然上人の父親もれっきとした武家でございます。

しかし夜討ちであり不意討ちの夜襲により、深い傷を負ってしまったのでございます。

すると9歳になる子供の法然上人は、何と弓矢を引絞り父親に夜襲を仕掛けたのた武家に痛手を負わせたのでございます。

痛手を負った武家は、美作國の役所を出奔したのでございます

法然上人の父親は、9歳の法然上人を呼び云ったのでございます。

我が仇を討つと考える事は駄目であるぞ。

法然上人が仇を討つと、またまた相手の親類縁者も仇を討つ事になる。

其れでは仇討ちの張合いになり相手方も法然上人も不幸になると云ったのでございます。

そして法然上人は、比叡山延暦寺に行き我が父親の菩提を弔い偉い御坊主さんになってくれと懇願したのでございます。

その後法然上人は、比叡山延暦寺に行き修行を実践したのでございます。

法然上人は、美作國の中でも秀才でございました。

比叡山延暦寺の僧になっても、智慧第1の法然坊と云われる程の天才でございます。

そして時の摂政関白殿下を檀家にする程の人格者でもございました。

そして1年間で法然上人は、比叡山延暦寺に存在するお経を読破していたのでございます。

そのお経の中で、阿弥陀仏のお経が人々を救済する唯一の方法だと云って15歳で比叡山延暦寺を降りてしまったのでございます。

そして宮の中の庵で、庶民階級の人々を救済する活動を再開したのでございます。

仕事をやりながら南無阿弥陀仏を唱えるだけで極楽浄土に行き救済されると説いたのでございます。

其れまでの仏教は、隙な貴族階級の特権事項でございました。

その仏に救われる対象を庶民階級まで広げたのでございます。

法然上人の元には、救済を求めて宮だけでは無く畿内地区から教えを乞いに人々が押しかけたのでございます。

法然上人の余りの繁盛振りに恐怖心を抱いた旧仏教寺院は、法然上人を流し者にするように働きかけたのでございます。

そして法然上人は、土佐國に流罪になってしまったのでございます。

ところが土佐國でも布教活動が継続された結果、土佐國には浄土宗の寺が数多存在するのでございます。