令和4年2月17日の事【4】

島原ノ乱と云う我が國で、最大級の乱が江戸時代に発生したのでございます。

豊臣秀吉は、バテレン人のキリスト教布教の真の目的を知ったのでございます。

バテレン人のキリスト教布教は日本國を征服する為の市場調査であったのでございます。

ところがバテレン人は、自分自身の國に対して日本國に攻め込んで来る事は辞めるべきと手紙を書き送っているのでございます。

日本國は、戦国時代真っ最中であり外国人の軍隊に負ける事が無い國力を備えていたのでございます。

そして徳川家康三河守は、江戸幕府を創設したのでございます

しかしながら九州地区には、バテレン人が残した遺産キリスト教徒が数多存在していたのでございます。

特に肥前國島原には、有馬家と云うバテレン好きな藩主が存在していたのでございます。

また天草地区にも、小西行長と云う堺の商人出身の武士が天草地区の大名として赴任していたのでございます。

小西行長は、関ヶ原の戦いで敗者となり首を斬られたのでございます。

しかしながら天草地区には、キリスト教徒が数多存在していたのでございます。

そこで徳川幕府は、有馬家を宮崎県に藩替えしたのでございます。

島原藩には、奈良県から武闘派で徳川家康に良く思われたいと願う松倉と云う武士が赴任したのでございます。

この松倉氏は、島原地区は4万石の石高しか実際は無いのに8万石として幕府に納税していたのでございます。

その4万石と8分石の差額は、全て農民からの徴税で賄わていたのでございます。


ところが島原地区の農民は、元々は有馬家の家臣筋が数多存在したのでございます。

有馬家は、鎌倉時代から室町時代を通して島原地区に居た名家でございます。

そこで国替えの沙汰に対して、宮崎県に行く事無く農民になった元有馬家家臣筋が数多存在していたのでございます。

松倉氏も、暴力集団の頭ではありましたが元武士階級の農民には手こずっていたのでございます。

そこで物量作戦で、農民を逮捕しては地獄に放り込んだりして残酷なしごきをしたのでございます。

農民たちは、一斉に有馬家の本城原城に立てこもったのでございます。

その数は5万でございます。

そして天草地区の農民たちと合流したのでございます。

徳川幕府は、九州地区の大名を招集したのでございます。

幕府の総大将には、板倉と云う京都所司代を拝命した武士が赴任したのでございます。

板倉の石高は、5万石であり九州地区の藩とは比較にならない小大名でございました。


だから九州地区の大大名は、譜代大名ではございますが小ぶりな板倉の指示に従う事がなかったのでございます。

板倉は焦りました。

そこで板倉は、手勢の軍勢で一揆衆に突入したのでございます

しかし板倉の軍勢は、全滅の憂き目にあったのでございます。

そこで徳川幕府は、徳川一門衆で老中首座を拝命する松平氏を派遣したのでございます。

今回の指揮官は、徳川一門衆で老中首座でございます。

また松平氏は、知恵伊豆と云う別名が付いていたのでございます。

今回は、九州地区の藩主たちは競って一揆衆に突入したのでございます。

そして一揆衆は、多勢に無勢に陥り全員が討死したのでございます。

我が佐賀鍋島弾正忠家は、早く突入したので幕府から叱られたのでございます。

しかし世渡り上手な鍋島弾正忠家でございます。

徳川家康に取り入り、失態を免除されたのでございます。

我が先祖は、この世渡り上手な鍋島弾正忠家に所帯事乗っ取りにあったのでございます。

そして我が先祖は、仇鍋島弾正忠家の家臣筋として行き延びて来たのでございます。

其れも足軽大将5石取りの家臣筋でございます。

5石では食べて行く事は出来ません。

そこで副業の傘☔貼りの内職をして生計を維持して来たのでございます。

辛いです。