朝筋トレは百%は達成したのでございます。
朝入酸素は今からです。
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏現世利益和讃。現世利益は今生きている事でございます。南無阿弥陀仏。
いゃいゃ生かされている事でございます。南無阿弥陀仏。
我が家の再興は間違い無しでございます。
我が事業は成功でございます。
源平合戦でも、源氏方の武者は関東地区の地主が主でした。
一方で平氏方の武者は、西國の地主が数多を占めていました。
一方で関ヶ原の戦いでは、徳川家康方に味方した武者は、東国の武者も西國の武者も入り乱れていました。
徳川家康と対立した石田三成は数多の諸大名に人気が無く、総大将に就任した毛利輝元も人望はありませんでした。
しかし石田三成方に味方した武将の中で、活躍した人物が二人居るのです。
1人は、一生の中で一度も合戦に負けた事が無い九州地区の立花宗茂です。
立花宗茂は、関ヶ原の戦いには参加する事無く近江國の大津城を攻め落としたのでございます
もう1人は、東軍の総大将徳川家康の本体を引き連れていた徳川秀忠の軍勢を信州上田城に釘付けした真田昌幸・真田幸村親子でございます。
立花宗茂の父親高橋紹運も、養父立花家も共に落ちぶれる九州地区の名門大友家を最後まで見捨てる事無く守り抜いた武将の薫陶を受けた武将でございます
九州地区の最大級の武将は、薩摩國と大隅國のニカ國の守護大名島津家です。
我が家の先祖も、島津義弘と有馬晴信連合軍に敗退した後に家臣筋鍋島弾正忠家に家を乗っ取られて倒産したのでございます
一方で大友家は、優秀な家臣筋高橋紹運と立花家の支えによりて徳川幕府の高家筋となり家の存続に成功したのでございます
また真田昌幸と真田幸村は、関ヶ原の戦いの後には高野山口で隠遁生活を余儀なくされました
しかし真田昌幸の嫡男真田信之は、上田城から長野市の近くに移住となり大名家として存続しました。
その石高は、10万石でございます。
江戸幕府では10万石以上の大名家は、高待遇として扱わたのでございます。
因みに我が家は、仇である鍋島弾正忠家で5石取りの槍磨きの足軽大将として処遇されていました。
先祖の私自身としては、元々の家臣筋鍋島弾正忠家の家来筋になるよりは武士らしく切腹するべきと考えていました。
しかし今は、足軽大将5石取りの身分でも生きてくれてありがとうございますと感謝を申し上げたい気持ちで一杯です。
ご先祖様ありがとうございます南無阿弥陀仏。
また仇の鍋島弾正忠家は、何と浄土真宗本願寺派西のトップと懇意にしていました。
その関係性から、江戸幕府が定めた檀家制度でいち早く浄土真宗本願寺派を取り入れました。
しかし主人筋鍋島弾正忠家が決めた浄土真宗本願寺派に宗派換えをしたのでした。