令和4年1月26日の事【1】

私は武家の子孫でございます。

鎌倉時代以前には、下級貴族の子弟であり九州地区太宰府の役人を拝命していたのでございます。

そんな時に源頼朝が、流人の身分でありながら平氏打倒に舵を切ったのでございます。

本来的には武家貴族階級の平氏が、何を血迷ったのか生え抜きの公卿集団の真似事をしたのでございます。

武家貴族階級の平氏政権に期待した武家は、平氏政権に失望したのでございます。

そんな時に関東地区を地盤にする源頼朝を、特に関東地区の地主階級が応援📣したのでございます。

源頼朝も本来的には武家貴族階級でございます。

伊豆國に流罪になった時には、四位下右兵衛佐の官職にも指名されていたのでございます。

我が先祖は、下級貴族で地方勤務からの脱却を掛けて昼間は太宰府勤務そして夜は源平合戦の源氏方の武家として忙しい毎日を送っていたのでございます。

そして源頼朝の大勝利で源平合戦は終了したのでございます。

我が先祖は、源頼朝から九州地区は肥前國の佐賀の地頭職に指名されたのでございます。

早々と太宰府には、退職願い書を提出し晴れて鎌倉幕府御家人となったのでございます。

肥前國は、日本国66カ国の中でも大国に分類される國でございます。

人材不足の鎌倉幕府では、我が先祖のように朝廷に奉職した経験者は好条件の地頭職に指名されていたのでございます。

しかし鎌倉幕府以前は、武家階級の家筋は平氏政権に数多の恩恵を頂いていたのでございます

そんな武家階級が、平氏政権が地主に冷たい政治を行った為に恩義を忘れて源氏系統に鞍替えしたのでございます。

私ならば恩義が数多存在する平氏政権に対して、壇ノ浦の戦いまで追いて行き滅びる道を摂りたいのでございます。

しかし欲得🉐付きで、我が先祖は源頼朝に加勢したのでございます。

この欲得🉐付きの傾向が、一層に際立つ傾向が存在したのが室町時代でございます。

楠正成を例外として、室町時代武家は皆が欲得🉐付きで動いていたのでございます。

私ならば、源氏として栄えるよりも平家一門衆と一緒に壇ノ浦に沈み込みたい心境でございます。