令和3年12月19日の出来事

関ヶ原の戦いでは、西国の大名は毛利元就の孫を総大将に担ぎ上げた。

実質的な大将は、近江国佐和山城🏯15万石取りの中大名石田三成が差配していたのでございます。

その西国大名の中でも、九州地区の島津家は本来的には徳川家康に味方する予定でございました。

しかし手違いによりて、何と石田三成の味方をする事になったのでございます。

そこで島津家では、石高に見合う武士団を派遣する事は無く島津義弘を大将に3百騎の選りすぐった軍勢を派遣したのでございます。

そして関ヶ原の戦いが開始したのでございます。

西軍では、石田三成大谷吉継位の軍勢が死にものぐるいで合戦していたのでございます。

その他の武士団は、徳川家康に遠慮してサボタージュをしていたのでございます。

石田三成の軍勢は、行き当たりばったりで味方する大名が数多存在したのでございます。

そして徳川家康が勝った暁にはサボタージュした事で西軍に味方した事を免除して貰う腹積りでございました。

しかし島津家は、鎌倉時代からの守護職大名でございます。

徳川家康も現在は、3百万石の大大名でございます。

しかし鎌倉時代から室町時代には、加茂神社の領地の管理者であり其れ程度の武士階級でございます。

そこで関ヶ原の戦いでは、1ミリメートルも動く事はございませんでした。

そして西軍の敗北宣言が確定した時に、傍らにいた島津義弘の家老職に訪ねたのでございます

合戦も終了した。

其れでは鹿児島に帰還しようと思うぞ。

そこで徳川家康の武将で一番に強い陣は何処であるか訪ねた。

家老職は云ったのでございます

徳川家康の陣が一番に強い軍勢の集団でございますと答えた。

島津義弘は、軍勢3百騎に向かって演説したのでございます。

今から徳川家康の陣を抜けて鹿児島に帰還する予定であると云ったのでございます。

薩摩隼人は云いました。

殿様は良い考え方を呈示して下さいました。

武士と云う者は、強い軍勢の中を駆け抜けてこそ武者でございますと云った。

そして島津義弘徳川家康の陣中突破が実現するのでございます。

我が先祖も、薩摩隼人の勇猛果敢な武者ぶりに負けてしまったのでございます。

佐賀人は、別名ハッタリ男児と云うのでございます。

所詮九州男児は、鹿児島県&熊本県&福岡県民の総称でございます。

朝筋肉体操&トレーニングは無しでございます。

朝台湾バナナは食べ過ぎました

朝の勤行は実行した次第でございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

我が先祖の再興&復興&発展間違いございません。

我が事業の急上昇気流に乗る事

以上でございます。