令和4年1月24日の事【4】

島津義弘関ヶ原の戦いでの敗走の折りに、わざわざ敵陣の総大将徳川三河守家康の本陣を中央突破する策に出たのでございます。

我が先祖も、地頭職から戦国大名に格上となり九州地区を北側に進行していたのでございます

ところが同じ肥前國の有馬家から、何と裏切りの憂き目に遭遇したのでございます。

有馬家の娘を、我が先祖の惣領家は嫁にしていたのでございます。

有馬家は、我が先祖の惣領家の舅殿の家筋でございます。

その舅殿が、何と我が家に反旗を翻して来たのでございます。

有馬家だけの反旗ならば、我が先祖の実力で対応すれば討伐出来たのでございます。

ところが有馬家は、我が先祖と対立関係にある島津家に応援要請をしたのでございます。

島津家では、有馬家からの応援要請に従い鬼島津と云う異名を持った島津義弘を送り付けたのでございます。

そして我が軍勢の五万騎馬に対して、有馬家&島津家連合軍は1万騎馬でございます。

軍勢の数ですれば、我が軍勢の方が有利でございます。

しかしながら合戦場は、有馬家の本拠地島原の地でございます

また島津家の中でも合戦上手な島津義弘の率いる精鋭部隊でございます。

我が先祖の軍勢は、我が先祖の惣領家が身勝手な振る舞いが数多存在した為に本心から家臣筋に就任していた武士が少なかったのでございます。

そこで五万騎馬の軍勢は、忠誠心に欠けていたのでございます

我が先祖の軍勢のほとんどが、真面目な態度で合戦に参加していた武士は少なかったのでございます。

合戦の顛末は、我が先祖惣領家の討死と云う最悪のパターンで終了したのでございます。

その後は豊臣秀吉から徳川三河守家康の政権に移ったのでございます。

徳川三河守家康は、江戸幕府を創設するに当たって石田三成関ヶ原の戦いで打ち破る必要性が存在したのでございます。

島津家は、本来的には徳川三河守家康方に味方する予定でございました。

ところが経緯上、石田三成の西軍の武将として参陣したのでございます。

関ヶ原の戦いが開始されたのですが、島津家の軍勢は微動だにしないのでございます。

石田三成は、島津義弘の陣に使者を送り付けたのでございます

すると島津義弘は、石田三成の家臣筋ではございません。と返答したのでございます。

島津家には、島津家本来の合戦スタイルが存在すると云ったのでございます。

そして西軍の敗北が決定した時に、島津義弘は傍らに居た家臣筋に聴いたのでございます。

徳川三河守家康殿の軍勢で、一番に勢いがある武将は誰かと訪ねたのでございます。

家臣筋は答えました。

今だけ勢いがある武将の陣は、総大将の徳川三河守家康殿の陣でございますと答えた。

島津義弘は云ったのでございます。

その勢い盛んな徳川三河守家康殿の陣を攻め立てよと云ったのでございます。

其処から島津義弘の徳川三河守家康の陣中突破が実行に移されたのでございます。

総大将徳川三河守家康の首も、あと少しで討取る事が出来たのでございます。

しかし多勢に無勢でございます

島津義弘は、方向転換して堺を目指したのでございます。

堺には、島津家の舟が存在したのでございます。

しかし3千人の軍勢で、堺まで到達出来た武者は10人でございました。

関ヶ原の戦いの後に、徳川三河守家康は島津家の隣地を減らす事も無く安堵したのでございます。

そして島津家は、70万石の石高を有する薩摩國と大隅國2カ国の太守に指名されたのでございます。

我が先祖も鍋島弾正忠家に横取りされる事が無ければ、肥前佐賀藩35万石の太守でございました。

悔しくて悔しくて頭が痛くて頭痛薬を飲みました。