令和4年1月24日の事【3】

藤原成親と云う三流貴族が存在したのでございます。

白河天皇陛下は、生え抜きの貴族階級の私的な隣地の拡大を抑える為に院政と云う変則的なシステムを編み出したのでございます。

幼い息子さんに天皇陛下の位を譲るのでございます。

幼い天皇陛下には、摂政関白家の人が補佐役として政治を補佐するのでございます。

ところが幼い天皇陛下の父親が院の御所で上皇陛下として息子さんの政治を補佐するのでございます。

本来的には、天皇陛下の補佐役は摂政関白家でございます。

しかし院の御所に於いて、天皇陛下の政治を補佐する上皇陛下に権力が集中したのでございます。

生え抜きの貴族摂政関白家は、政治的権力が薄れて私的隣地の拡大も細くなってしまったのでございます。

また上皇陛下の政治を司る院には、武家階級の人が北面の武士として集まって来たのでございます。

また貴族階級でも、生え抜きの貴族では無く三流貴族階級の人が院の御所に集まっていたのでございます。

その中で後白河上皇陛下のお気に入りの三流貴族藤原成親は、何と官職が進んで大納言まで昇進していたのでございます。

大納言職の定員は、五人でございます。

三流貴族の藤原成親が、五人の定員大納言職に昇進出来たのは異例中の異例な人事でございます。

ところが藤原成親は、大納言職だけでは満足する事が出来なかったのでございます。

生え抜きの貴族も、二流三流の貴族の誰もが就任したい官職が武官の最高職近衛府の左大将と右大将が存在したのでございます。

しかし武官の最高職近衛府の左大将と右大将は、誰もが就任出来る官職ではなかったのでございます。

就任出来たのは、摂政関白家の息子さんたちでございました。

また二流貴族のお公卿さんも、時々就任したのでございます。

しかし三流貴族の藤原成親は、武官の最高職近衛府の左大将と右大将に就任出来るはずがなかったのでございます。

しかし後白河天上皇陛下のお気に入りの藤原成親は、武官の最高職近衛府の左大将と右大将に就任する野心を燃やしていたのでございます。