武官の最高職近衛府の大将

貴族の官職には文官と武官の二種類がありました。


文官は左大臣!右大臣!内大臣!次に大納言がありました。


大納言の定員は、5人であります。



しかし貴族の子弟が増えてくると、官職に有り就く事が出来ない貴族が出てきます。


そこで大納言に加えて権大納言と云う官職を創設したのでございます。


今風に云うと課長補佐と云うポストを増やす事によって、労働者のモチベーションアップに繋げる事が出来ました。


しかし文官の最高職の左大臣や右大臣や内大臣の官職に就任するためには、家柄重視であり生え抜きの貴族の子弟しか就く事が出来ませんでした。


そして武官の最高職の近衛府の左大将や右大将に就任するのは、やはり家柄重視であり生え抜きの貴族の子弟が就任するポストでした。



また同じ貴族が文官と武官の官職を兼ねる事が一般的であります。


だから同じ生え抜きの貴族が、左大臣兼右大将と云うような事が一般的でございます。



この官職に就任する事が出来る家柄の貴族が、摂政関白家のお公卿さんでございます。


一条家!二条家!九条家!近衛家三条家の5摂家だけでございます。


次のクラスの家柄のお公卿さんの徳大寺家などは、文官ならば右大臣や内大臣!武官ならば近衛府の中将などでございます。


我が先祖は、朝廷の出先機関である九州の太宰府の役人でした。



其れも高級官吏ではなかったために、源頼朝が平家打倒に立ち上がった時に太宰府の役人を辞任して源頼朝の陣屋に馳せ参じたのでございます。


この恩賞として肥前国の佐賀荘園の地頭職に指名されたのでございます。