院政第1号白川上皇陛下の事

藤原鎌足以来、天皇陛下の妃に自分自身の娘を入内させて娘が産んだ王子様を次の帝位に就任させる。


そして藤原家自らが、幼い天皇陛下の政治の補佐役として摂政関白殿下が実権を掌握する。



一方幼い天皇陛下の父親は、上皇陛下として余生事をお暮らしになるが実際は隠居の身分でございました。



ところが白川天皇陛下の母親は、珍しく藤原家の姫宮ではありましたが摂政関白殿下の姫宮では無く二流貴族の出身者でございました。



摂政関白殿下の家の人々は、各地に荘園を数多持ち合わせ皇族の経済的力を越える力強さがございました。



そこで摂政関白家に繋がらない白川天皇を、摂政関白家に虐げられていた生え抜きの御公家さんたちが徒党を組んで白川天皇をバックアップしたのでございます。



この白川天皇陛下は、上皇陛下に即位しましたが息子さんの天皇陛下の政治は自分自身が取るので摂政関白殿下家は口出しする必要性はないぞと云った。



そして白川上皇陛下は、院と云う御所に息のかかった公家や武士を狙い撃ちして院の御所に奉職させたのでございます。



結果天皇陛下に奉職する貴族や武士よりも、院の御所に奉職する貴族や武士が数多存在する事になった。



白川上皇陛下は、息子さんや孫さんの妃選びにも口出しをして二流三流の藤原家やそれ以外の貴族の出身者から妃を選抜したのでございます



この政策により摂政関白家の政治力は弱まり他の貴族の力が相対的に上昇したのでございます



また摂政関白家や寺院や寺社が、全国各地に所有していた領地を武力行使により減少させる政策を取りました。



その方法としては、各地の国司武力行使に優れている武士階級の人々を国司に選抜しました



この武士階級の人々が国司として赴任すると、暴力的行使を使って貴族や寺社や寺院の領地を奪い取ってしまい院の領地にしてしまうと云う方法を取りました。



ところが貴族は武力行使には対抗する事は出来ませんでした。



しかし寺社や寺院では、学者の僧兵自ら武装化して国司に指名された武士階級に対抗したのでございます。



特に源義家の嫡子である源義親が、白川上皇陛下の指名により美濃国国司に赴任したのでございます。



八幡太郎義家と云うと、超人的な武将として知られていました。



その八幡太郎義家の嫡子である源義親も、武勇に優れた武士でございました。



そこで白川上皇陛下は、源義親美濃国国司に指名したのでございます。



源義親は、白川上皇陛下の期待通りに寺院や神社の領地を片っ端から攻め取る事に成功したのでございます。



しかし美濃国にある末神社や末寺院は、京都に存在する本寺院や本神社に神輿を担いで訴えたのでございます。



白川上皇陛下も、京都にある比叡山延暦寺や加茂神社や由緒正しき寺院や神社の訴えに対しては引き下がるしかございません。



そこで美濃国国司である源義親を、不本意ではありますが流罪にしたのでございます。