令和4年2月7日の事【2】

朝廷では、母君も同じ兄の崇徳上皇陛下と弟君の後白河天皇陛下が対立したのでございます。

また生え抜きの公卿で兄の藤原基道【摂政関白】と弟の左大臣【悪左大臣】藤原何某が対立したのでございます。

兄の摂政関白殿下は、余りに政治力に欠けにていたのでございます。

そこで父親は、弟の藤原何某を次の摂政関白職に就けて落ち目になった藤原摂政関白家の復活を目指したでございます。

ところが崇徳上皇陛下と後白河天皇陛下との対立が激化したのでございます。

後白河天皇陛下に味方した乳母子の信西少名言は、学者であり占いにも長けた貴族でございました。

そこで早くから、武家貴族に後白河天皇陛下方に味方するようなと号令したのでございます。

後白河天皇陛下方の館に馳せ参じた武家は、平清盛は一家一門衆を纏めて天皇陛下方に味方したのでございます。

一方で武家貴族の源氏方ては、源義朝と源三位頼朝政だけが天皇陛下方の館に参陣したのでございます。

崇徳上皇陛下焦ったのでございます。

そこで源義朝の父親源為義と子供たちに対して崇徳上皇陛下方に参陣するように命令書が届いたのでございます。

源為義は、悩み抜いたのでございます。

源為義は、朝廷や貴族の争いに番犬的な扱いに対して不満を持ち合わせていたのでございます

武士は、武家貴族とは云え生え抜きの貴族たちに替わり番犬のように合戦するだけの存在だったのでございます。

源為義は、子供を66人産む事を実行に移していたのでございます。

もう貴族階級の云われるがままに、武士同士が合戦する事に嫌気が芽生えていたのでございます。

子供を66人産む育てて、日本國の全部の國に国司として赴任させる計画を練っていたのでございます。

しかし63人までは達成したのですが足りませんでした。

そして崇徳上皇陛下方から、招集通知が届いたのでございます

崇徳上皇陛下方と後白河天皇陛下方との合戦の結果は、後白河天皇陛下方の勝利に終わったのでございます。

崇徳上皇陛下方の武士として参加した者は、皆が首を撥ねられたのでございます。

後白河天皇陛下方の武士は、平清盛蔵人頭に指名されて数多の国司平氏一門衆が就任したのでございます。

一方で源氏方では、源義朝源頼政二人の源氏だけしか残ってなかったのでございます。

源義朝は、右馬守と云う官職に指名されました。

しかしながら右馬守とは、朝廷の馬屋の別当職であり馬屋の隊長職でございます。

武家貴族階級が就任するには良い官職ではございます。

しかし平清盛が就任した蔵人頭と比較すると、相当の差が付いたのでございます。

源頼は、平清盛の推薦状もあり4位から3位に昇進したのでございます。

その後焦った源義朝は、平氏一門衆を討伐する平治の乱を引き起こしたのでございます。

しかし平氏一門衆に敗北し、源氏の勢力は源3位入道頼政だけになっていたのでございます。

その後平氏全盛の時代がやって来ました。

源3位入道頼政は、平氏の推薦状によりて3位に昇進する事が出来たのでございます。

だから義理堅い源3位入道頼政は、平氏政権に忠勤を尽くしていたのでございます。

ところが余りにも横暴な平氏政権に対して、源氏の血が騒ぎ出し抑える事が出来なくなったのでございます。

そこで後白河天皇陛下の第2皇子様を騙して、平氏打倒の謀反を御勧めたのでございます。

源3位入道頼政は、諸国に散らばる源氏系統の名前を披露し並べ立てたのでございます。

俗に云われる源氏揃いでございます。

この時に源3位入道頼政が並べ立てた源氏系統の人々は、現在解っている系図と全てが一致するのでございます。

私自身の家筋は、藤氏の系統でございます。

もしも我が家が、源氏系統ならば源3位入道頼政が並べ立てた源氏揃いが我が先祖の系譜を証明してくれたのに悔しい限りでございます。