令和4年1月21日の事【3】

私自身は、歴史の時代では室町時代鎌倉時代&戦国時代が大好きでございます。

その中で関ヶ原の戦い石田三成方に味方して、20年間20万石の大名から素浪人の身分となった人物が存在するのでございます。

その後何と同じ旧領地柳川藩主に返り咲いた立花宗茂と云う武将が存在するのでございます。

立花宗茂は、絶対に主君筋を裏切る事をしない武将でございます。

立花宗茂の主君筋は、あのバテレン好きな大名であり鎌倉時代からの名門大友家でございます

大友宗麟の代になり一時的に勢いがございました。

しかし薩摩隼人の島津家が、大友家の領地に侵入して来たのでございます。

大友家の家臣筋の中では、大友家を見限り島津家に寝返る武将が続出したのでございます。

しかし立花宗茂と父親高橋紹運親子は、弱目の大友家を見捨てる事を潔しとはしなかったのでございます。

そして豊臣秀吉の九州地区入りによりて、島津家の勢いを軽減され大友家の倒産は辛うじて免れる事になったのでございます

豊臣秀吉は、律儀な立花宗茂をたいそう気に入り柳川20万石の大名に抜擢したのでございます。

立花宗茂は、あの徳川家康にも好かれ仲良く付き合っていたのでございます。

徳川家康は、関ヶ原の戦いでは当然の事立花宗茂は味方すると思い込んでいたのでございます

しかし立花宗茂は、自分自身を20万石の大名に取立てくれた故人豊臣秀吉に恩義を感じていたのでございます。

そこで石田三成方の西軍の武将として参陣したのでございます

同じ頃に、直江兼続と云う上杉家執事職は愛の前立を兜に付けて戦場を走り回っていたのでございます。

愛は、愛染明王&妻えのアピールだったのでございます。

立花宗茂の家臣筋は、豊臣秀吉の命令により朝鮮半島に乗り込んだ時に加藤清正が殺され掛かった時に立花宗茂が助けたのでございます。

加藤清正は、この時の恩義を返す積りで立花宗茂の家臣筋を全部受け入れたのでございます。

そして立花宗茂は、大名から素浪人の身分になった後にも腐る事無く教養を身に付けていたのでございます。

そして遂には、20年間の歳月を経て旧領地の柳川藩の藩主に返り咲いたのでございます。

そして加藤清正の家臣筋として暮らしていた旧立花宗茂の家臣筋は加藤清正に解雇してくれるように懇願したのでございます

加藤清正は、快く立花宗茂の家臣筋のお願い事を受け入れたのでございます。

その後も加藤清正家と立花宗茂は親しく付き合ったのでございます。

ところが加藤清正熊本藩は改易と云う憂き目に遭遇したのでございます。

その時加藤清正熊本藩の家臣筋を、当然のように立花宗茂は全員受け入れたのでございます。


私自身も、化け猫騒動の子孫では無く立花宗茂の子孫が良かったと思うのでございます。