徳川家康は、水戸藩!尾張藩!紀州藩には付け家老として江戸幕府直轄の人物を派遣していました
あの国宝犬山城主は付け家老職でございます。
付け家老職は、国家公務員でありながら尾張藩の職員でもありました。
尾張徳川家も、江戸幕府直轄の人物を粗野に取り扱う事も出来ずに犬山城五万石の領土を与えていたのでございます。
大名も十万石以上になると、幕府での扱いも大大名と云う扱いをされるのでございます。
だから家老職でありながら五万石の扱いを受ける事は、破格の扱いを受けたと云う事が出来る
その人物は、尾張藩付け家老職成瀬隼人守でございます。
尾張藩は、朝廷から大納言職の官職を拝命しているのでございます。
石高も百万石の大大名であり、家老職も成瀬隼人守を含めて何十人も存在したのでございます。
しかし大名各の家老職は、成瀬隼人守だけでございます。
水戸藩や紀州藩の付け家老職も、大名各扱いの付け家老職は存在しないのでございます。
成瀬隼人守は、能力者であり徳川家康からも信頼性抜群の人物でございます。
もし江戸幕府に居残っていたならば、江戸幕府の老中職も間違い無い切れ者でございました。
だから大名扱いは当然であり、五十万石の大大名は間違い無い人物でございます。
其れが尾張藩の家老職であり、江戸幕府の老中職とは比較にならない待遇扱いでございます。
しかし徳川家康は、尾張徳川家の息子の無能力者を自覚していたために老中首座各の成瀬隼人守を付け家老職に指名したのでございます。
その代わりとして破格の待遇である犬山城の殿様に抜擢しました。
しかし成瀬隼人守の子孫たちは、本来的には江戸幕府の老中首座各の職も想いのままであったのが尾張藩と云う田舎侍の待遇で終わる事に対して遺恨を抱いていたのでございます。
そこで尾張藩の侍たちを遇たらな武士として、成瀬隼人守の子孫が故意にサボタージュしたのでございます。
だから他の藩士たちからは、尾張藩の侍たちは皆が大根侍であると陰口を吐かれていたのでございます。
付け家老職成瀬隼人守は、尾張藩の付け家老職に不満をむんむんに抱いていたのでございます