令和4年1月29日の事【2】

朝入酸素運動は実践したのでございます。

内容的には散歩を30分程千葉市内を歩き回ったのでございます。

筋肉トレーニング&体操は実践したのでございます。

内容的には、3キログラムのダンベルの上下運動の二百回実践したのでございます。

朝我が宗派浄土真宗本願寺派の読経は実践したのでございます

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然上人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興&復興は間違い無しでございます。

我が事業の急上昇気流に乗る事は間違い無しでございます。

今回の車中泊の目的地は、何と愛知県名古屋市でございます。

私自身は、名古屋市に10年前住み続けていた元住民生でございます。

大須観音様や熱田神宮名古屋駅や栄町や大曽根などの各地域を歩き回っていたのでございます。

やはり尾張名古屋は、城🏯で持つと云うように名古屋城は素晴らしい城でございます。

名古屋藩の殿様は、朝廷から大納言職を拝命していたのでございます。

石高も80万石の大大名でございます。

徳川幕府御三家の中でも、筆頭各の家筋でございます。

しかしながらあの徳川家康は、尾張名古屋藩主の息子の能力を心配していたのでございます。

そこで徳川家康重臣であり、江戸幕府の老中職は確実に手中に収める実力者成瀬隼人正を呼び出して、徳川家康は頼み込んだのでございます。

その頼み事の内容は、尾張名古屋藩主の息子は無能力者であるぞ。

そこで成瀬隼人正のような切れ者を、是非とも尾張名古屋藩主の家臣筋に付けたいと云ったのでございます。

しかし成瀬隼人正は、老中職就任の段取も終わり後は辞令書を待つだけでございました。

そんな時に主君筋である徳川家康に懇願されたのでございます

成瀬隼人正は断ったのでございます。

徳川家康は、徳川幕府の家臣筋の状態のままで尾張名古屋藩の家臣筋を兼務する事の条件を呈示したのでございます。

また名古屋藩領犬山城10万石の大名も同時に呈示したのでございます。

成瀬隼人正は迷ったのでございます。

犬山城主は、我が成瀬家の悲願だったのでございます。

成瀬隼人正家は、元々は犬山城一帯の産まれでございます。

そこで産まれ故郷の犬山城主は魅力的な条件付きでございます

しかし江戸幕府の老中職は、もっと魅力的な職でございます。

しかし成瀬隼人正は、尾張名古屋藩の付け家老職と犬山城主としての人生を選択したのでございます。

しかしながら成瀬隼人正の子孫筋は、江戸幕府の老中職を所望していたのでございます。

そこで尾張徳川家を、江戸幕府将軍職就任する事をサボタージュしたのでございます。

尾張徳川家の侍の事を、世間一般では大根侍と陰口を云っていたのでございます。

此れも皆、家老職筆頭成瀬隼人正家のサボタージュした事が原因でございました。