令和4年1月29日の事【3】

鎌倉時代からの九州地区の名門大友家は、相模國から豊後國の守護職に指名されていたのでございます。

九州地区の名門武家は、薩摩國の島津家&豊後國の大友家&肥前國と他の5カ国の守護職を拝命した少弐家が存在するのでございます。

因みに我が先祖は、九州地区の肥前國佐賀荘の地頭職の家筋でございます。

まぁ我が先祖は、上中下の中では中クラスの武家でございました。

地頭職と泣く子供には敵わないと云われていたのでございます

大友家は、鎌倉時代から室町時代に掛けて豊後國の守護職を拝命したのでございます。

特に足利治部太夫尊氏が、楠兵衛尉正成との合戦に敗北したのでございます。

そんな時に足利治部太夫尊氏の傍らに居た大友氏は、足利治部太夫尊氏に進言したのでございます。

九州地区には、足利治部太夫尊氏殿に味方する武家が数多存在するのでございますと云ったのでございます。

足利治部太夫尊氏も、九州地区の名門大友家の意見は尊重していたのでございます。

そこで畿内地区を捨てて、九州地区に落ち延びて行くのでございます。

すると敗軍の大将足利治部太夫尊氏の陣に、楠兵衛尉に付き従っていた武士たちが敵将足利治部太夫尊氏に付き従って行くのでございます。

楠兵衛尉正成は、この現象を観て朝廷の信頼性が無くなって行くのを自覚したのでございます

そして足利治部太夫尊氏が室町幕府を開設すると、大友家も豊後國と豊前國の2カ国の守護職に指名されたのでございます。

しかし戦国時代に突入すると、バテレン人に心を奪われてしまった大友宗麟守護職に任命されたのでございます。

大友宗麟も、最初は勢いが存在したのでございます。

ところが我が先祖や島津家から攻め立てられてしまったのでございます。

仏教を弾圧してバテレン人を優遇した主君筋大友宗麟から離反する家臣筋が続出したのでございます。

その家臣筋の中で、立花家や高橋家だけは落ちぶれる主君筋大友家を見捨てる事はしなかったのでございます。

其れも高橋家や立花家は、あの武勇に優れた薩摩隼人の武将でも尊敬すると同時に恐れていたのでございます。

高橋家は、大友宗麟の為に1千騎馬の軍勢で島津家2万騎馬の軍勢と合戦したのでございます

そして自分自身の命を掛けて、主君筋大友宗麟を守護したのでございます。

また立花家も、筑前國の大友家最前線に於いて島津家の侵入を阻止していたのでございます。

大友家には、落ち目の主君筋を見捨てる事を潔しとしない武家が数多存在したのでございます

あの豊臣秀吉も、大友宗麟はぼんくら大将であるが素晴らしい家臣筋を保有して大将であると云ったのでございます。

因みに我が先祖の惣領家に対する批評は、あの能力者鍋島弾正忠家を重役に用いたから実力派の大将であると云ったのでございます。