令和4年2月15日の事【2】

筋肉トレーニング&体操は8割は実践しました。

朝入酸素運動は8割は実践しました。

朝我が宗派浄土真宗本願寺派の読経は実践しました。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然上人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興&復興は間違い無しでございます。

我が事業の成功は間違い無しでございます。

足利治部太夫尊氏が、後醍醐天皇陛下に対して反旗を翻したのでございます。

しかしながら楠兵衛尉正成や新田義貞名和長年らの軍勢に破れ去ったのでございます。

ところが不思議な光景を、楠兵衛尉正成は目の当たりにするのでございます。

勝ち戦の朝廷軍の中の武士が、次から次に足利治部太夫尊氏の陣に参陣するのでございます。

この光景を目にする楠兵衛尉正成は、後醍醐天皇陛下に諫言したのでございます。

しかし後醍醐天皇陛下の側近の公卿集団は、勝ち戦したのに弱気な楠兵衛尉正成を叱り付けたのでございます。

楠兵衛尉正成は、心の中でつぶやいたのでございます。

諸国の武家の気持ちは、朝廷から離れているぞ。

しかしながら楠兵衛尉正成は、一介の荷役業界の組合長を摂津國と河内國の守に指名して下さいました後醍醐天皇陛下には恩義があるぞ。

我1人に至っても、後醍醐天皇陛下を見捨てる事は無いと誓っていたのでございます。

一方で足利治部太夫尊氏は、兵庫県辺りで付き従う武将を招集して軍議を催していたのでございます。

その軍議の席に居た九州地区の名門で、豊後國と豊前國の2カ国の守護職を拝命していた大友氏が、足利治部太夫尊氏に対して進言したのでございます。

足利治部太夫尊氏様、九州地区には数多朝廷の政治に不満を持つ武将が数多存在しています。

今は一旦は軍勢を九州地区まで引くのが得策でございますと云ったのでございます。

足利治部太夫尊氏は、現在風に云うと、慶応ボーイでございます。

早速に家臣筋大友氏の意見を採用したのでございます。

足利治部太夫尊氏は、五万騎馬の軍勢で九州地区に乗り込んだのでございます。

ところが九州地区から、京都に攻め上る軍勢は25万騎馬に膨れ上がっていたのでございます

この25万騎馬の軍勢の中に、楠兵衛尉正成は2百騎馬で突入したのでございます。

ところが楠兵衛尉正成の軍勢は行き延びようと思う武将は皆無でございます。

楠兵衛尉正成の軍勢は、足利治部太夫尊氏の25万の軍勢と3日間合戦し続けたのでございます。

凄いですよ。