令和4年1月19日の事【1】

平清盛が、武家貴族階級で初めて生え抜きの貴族を飛び超えて大政大臣正1位と云う最高の官職を極めたのでございます。

平清盛は、最初は院の御所に奉職する北面の武士に指名されたのでございます。

そしていきなり安芸の国の守に指名されたのでございます。

打続き宰相!衛門府督!検非違使別当職!大宰府大弐職!次に内大臣から左右の大臣を経る事無く大政大臣正1位に就任したのでございます。

普通は内大臣から右大臣を経て左大臣に就任するのでございます。

其れも右大臣には、二流貴族の家筋の人も就任する事が出来ます。

しかしながら左大臣や大政大臣に至っては、摂政関白家🏠の息子さんしか就任出来無い官職でございます。

この摂政関白家🏠の息子さんたちが就任する大政大臣に、武家出身者として平清盛が就任したのでございます。

この平清盛の出世には、京都の上や下の人々は皆が目を丸くしたのでございます。

平清盛が大政大臣正1位と云う最高の官職に就任出来たのは、祖父平正盛が助走路を付けていたのでございます。

平正盛は、伊勢國や伊賀國の国司を歴任して貯め込んだ金銭を生え抜きの貴族階級や皇室に献金したのでございます。

また瀬戸内海や九州地区の海賊たちを討伐したのでございます

しかしながら討伐した海賊集団を、朝廷には内緒で平氏の組織に組み入れたのでございます。

平正盛は、朝廷に対して国司として奉職しながら一方で海賊集団の頭として京都に送る税金を奪取していたのでございます。

この裏工作で獲得した金銭を貴族や朝廷に献金したのでございます。

朝廷では、平正盛の功績は誰よりも大きいと云って大国の守に任命したのでございます。

そして朝廷の中でも武家出身者として、頼りにされる存在感になったのでございます。

一方で武家貴族の源氏系統は、源頼義源義家親子が陸奥守&鎮圧府将軍職として東北地区の阿部一族を討伐する将軍として派遣されたのでございます。

ところが源頼義源義家親子は阿部一族を討伐する事が出来たとは云え12年間の歳月を費やしたのでございます。

武勇に優れた源氏系統でも、雪深い未開の地区東北では力を存分に発揮する事が出来なかったのでございます。

最終的には、東北地区出羽國の大豪族清原氏の応援📣を借りて阿部一族を滅ぼす事が出来たのでございます。

このような武家貴族としての失態を招いた後には、源氏系統の人々は低い官職しか指名される事しかなかったのでございます

そして武家貴族で一人勝ちの平氏は、平正盛の息子平忠盛になって36歳と云う老けた年齢に至って殿上人に指名されたのでございます。

生え抜きのお公卿さんならば、10代では殿上人に指名されるのでございます。

遅くても20代では殿上人に指名されます。

ところが武家貴族の平忠盛は、36歳と云う老けた年齢層で殿上人に就任したのでございます

この平忠盛が殿上人となっていたので、息子の平清盛の大出世街道が実現したのでございます

一方で源氏系統では、源義朝が右馬守職を拝命していたのでございます。

右馬守職は、朝廷に存在する馬屋の別当職でございます。

源氏系統の武家貴族は、朝廷内では其れ程度の武家でございました。

因みに我が先祖は、院に奉職する北面の武士の家筋でございます。