令和4年1月19日の事【2】

鎌倉幕府御家人中の御家人足利家の棟梁が、息子で足利家嫡男足利尊氏に云ったのでございます。

我が先祖足利家は、同じ源氏系統の一門衆として源頼朝を支えて来た。

ところが源氏将軍は途絶えて、同じ御家人の中でも北条家だけが繁盛している。

そんな中で我が祖父は、北条得宗家に謀反の罪を擦り付けられて切腹した。

我に勇気があれば、悪政を敷く北条得宗家を成敗する事が武家の棟梁各の勤めと思い悩んだ。

しかし我が動けば、諸国に散らばる足利一門衆が全て動く。

その足利一門衆の数は、女子供を含めれば万の数である。

ところが我に勇気や智慧や才覚無く、ただ足利の家名を維持するだけであった。

しかし尊氏よ。自分自身が武家の棟梁各として、北条得宗家の悪政を糺す時だと考えれば迷わず軍勢を催すのだ。

私自身のような家名を維持するだけの武家の棟梁各では駄目だと云ったのでございます。

尊氏よ。覚悟を恐れる事をするな。

武家の棟梁各は、悪政を恐れる事無く糺してこそであると足利尊氏を諭したのでございます。

そして足利尊氏は、後醍醐天皇陛下が鎌倉幕府討伐の院宣を出された時に鎌倉幕府打倒を掲げたのでございます。

鎌倉幕府執権職北条相模守は、北条家執事職長崎氏に命令して楠正成の討伐軍を編成したのでございます。

その討伐軍の総大将には、足利治部太夫尊氏を指名したのでございます。

また討伐軍の軍勢は、大半が源氏系統の武者でございました。

足利治部太夫尊氏は、足利家の守護職を拝命していた三河國で演説を催したのでございます。

足利治部太夫尊氏は、討伐する相手先は楠正成殿では非ず。

討伐する相手先は、京都の鎌倉幕府出先機関六波羅探題であるぞと云ったのでございます

大半が源氏系統の武者でございます。

足利治部太夫尊氏の演説を聴いた軍勢は、涙💧を流して号泣したのでございます。

この経緯を聴いた鎌倉の北条一門衆は云ったのでございます。

今回の遠征軍のほとんどが源氏系統であるぞ。

そして鎌倉に居る我々は平氏筋であるぞと云ったのでございます。

北条家執事職長崎氏の判断事に誤りが存在した事に気付いたのでございます。

しかし時既に遅かったのでございます。

因みに我が先祖は、今回も足利治部太夫尊氏方の武士として参陣したのでございます。