令和4年3月28日の出来事☘

朝筋トレは9割方は達成したのでございます。

朝入酸素は9割方は達成したのでございます。

朝我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経は百%は達成したのでございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞聖人バンザイ🙌でございます。

法然聖人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興は間違い無しでございます。

我が事業の成功は間違い無しでございます。

武家貴族階級代表各は、源氏と平氏でございます。

あの東北地方で阿部一族が、朝廷に刃向かう姿勢を見せた為に源頼義と嫡男源八幡太郎義家親子を陸奥守に任命して討伐軍を編成したのでございます。

ところが武勇に優れていた源頼義と源八幡太郎義家親子も地の利の悪さに阿部一族の討伐に13年間も時間を費やしたのでございます。

源頼義と源八幡太郎義家親子は加勢してくれた関東地区の武士団を引き連れて京都に凱旋したのでございます。

そして早速に朝廷に阿部一族の討伐した事を報告したのでございます。

すると朝廷からの恩賞は、一切無かったのでございます。

源頼義は、自分自身の領地を切り売りする事で加勢した武士に少ない領地を分け与えたのでございます。

この源頼義の行為を忘れていなかった関東地区の武士団は、流人生活の源頼朝平氏打倒の旗を掲げた時に恩義を返す目的で頼朝の陣に馳せ参じたのでございます。

しかし源氏は、源義朝が右馬守と云う官職に指名されたのに対して平清盛太宰府の大弐職に指名されたのでございます。

太宰府の大弐職は、三位が就任する官職でございます。

三位は、貴族階級の会議に出席出来る位置でございます。

一方で右馬守は、朝廷の馬屋の隊長であり何の権限も無いのでございます。

そこで起死回生を狙った源義朝は、三流貴族の藤原信頼と云う公家を唆して平氏打倒の大将に据えたのでございます。

しかし藤原信頼は、ぼんくら大将だったのでございます。

源義朝は、やけくそになり小勢で平氏の館六波羅館に夜討ちを仕掛けたのでございます。

しかし平清盛武家貴族でございます。

源義朝の夜討ちを未然に察知してしたのでございます。

源義朝は、一家一門衆を引き連れて代々の家来筋尾張國の知多半島の長田と云う武士を頼ったのでございます。

ところが源氏の家来筋でありながら、主君筋源義朝を風呂場で暗殺したのでございます。

武勇優れた源義朝ではございますが、パンツを履いていなかった為に、呆気無く討取られてしまったのでございます。

一方で平氏は、平清盛が大政大臣に就任したのでございます。