源氏と平氏の合戦は、源判官義経と兄に当たる源冠者範頼を大将に関東地区から駆け付けていた大名クラスや武蔵国の小さな地主が徒党を組んだ武蔵7党と云う団体で合戦したのでございます。
兄の源冠者範頼に付き従っていた関東地区の武士は大大名クラスでございました。
また源判官義経に付き従っていた武士は、武蔵7党のような関東地区の小さな地主クラスでございます。
関東地区でも大大名クラスの武士は、三年間に一度京都の御所の警護役で出向いたりしていたので合戦の作法事もわきまえる武士は多かった
しかし小さな地主クラスの武士は、畿内地区で行われていた合戦の作法事もわきまえる武士は皆無でございました。
詰まりは、夜討や騙し討ちや毒殺など何の方法を使用しても合戦に勝利すれば良かった。
また大将の源判官義経も、合戦の作法事をわきまえる武士の元で修業をした経験談はありませんでした。
一方の大将である源冠者範頼は、貴族の元で養育されていました。
貴族は、博識であり文官の貴族であっても合戦の作法事は学問上では知り得ていたのでございます。
源冠者範頼も、机上の空論ではございますが合戦の作法事も心得ていたのでございます。
この二人の大将に導かれて、一の谷の合戦や屋島の合戦や壇ノ浦の戦いなど大将の合戦場での作法事を理解しているかいないかで差が出たのでございます。
源判官義経は、一の谷の合戦場では関東地区の勇猛果敢な武士を従えて、鹿でも通らないような断崖絶壁を馬🐎で駆け降りたのでございます。
また屋島の合戦の時に導く、現在の大阪から台風🌀が到来しているにも関わらず源判官義経の舟と田代冠者の舟と後藤と云う源判官義経の父親の代からの家来の舟と大阪地区で舟を管理している管理者の武士の舟の4舟で夜中に誰にも知られないように出航したのでございます。
この時にも、舟の櫓の漕ぎ手が風が強いので待ちましょうと云う。
我の指示に従わない輩は、源氏の仇だと云って家臣筋の佐藤継義に射殺せと命令した。
漕ぎ手は、やけくそになり矢を射られて死ぬのも風で舟が沈没して死ぬ事も同じだと云って源判官義経の指示に従った。
また源氏と平氏の最後の合戦場壇ノ浦の戦いでは、源判官義経の舟からは平氏の舟の非戦闘員である漕ぎ手から射殺せた。
源平合戦の時代には、非戦闘員である漕ぎ手には一切手傷を負わせてはならない合戦のエチケットでありました。
ところが源判官義経は、故意犯か過失犯かは分かりませんが漕ぎ手を容赦なく射殺したのでございます。
こね源判官義経のエチケット無しの合戦法には源氏の味方からも批判殺到でございました。
源判官義経は、短期集中であり短期決戦方の大将でありました。
また源判官義経に付き従っている武士たちも、手柄重視であり合戦の作法事やマナーやエチケットなどは無視無視無視を心情に持つ武士が数多存在したのでございます。