令和4年2月9日の事【1】

東武者の戦法は、西國の武士団たちには考えられない程ドライでございます。

西國の武士団は、家来筋が敵将に首を斬られようとしていると助けに行くのでございます。

ところが坂東武者は、家臣筋が敵将に首を斬られようとしているのに助ける素振りも無く自分自身の巧妙手柄に一生懸命になるのでございます。

源九朗判官義経も、幼い頃に京都の鞍馬山の寺で稚児になったとは云え父親は源義朝であり坂東武者でございます。

平氏は海での合戦を得意分野とする武家貴族でございます。

一方で源氏系統の武士団は、馬🐴での合戦を得意分野とする武家集団でございます。

そこで平氏方では、常に船⛵を海上に漂わせいざ逃げる時には海上交通を利用する戦略を採用したのでございます。

源氏方の武士団は、海上の合戦には不慣れな為に平氏方に勝っていても追いかける事が出来いのでございます。

そして源平合戦の最終戦は、壇ノ浦の戦いでございます。

源氏方でも味方に、三浦介の三浦水軍や熊野水軍や河野水軍や松浦水軍のような海上合戦に馴れた武士団も多少は存在したのでございます。

しかし平氏方の武士団は、皆が海上での合戦には熟練工でございます。

漕ぎての採用も、毎回同じ人物を採用していたのでございます

船⛵の漕ぎて手は、非戦闘員でございます。

そこで船での合戦では、漕ぎて手を弓矢で射殺す事は戦争のエチケットに反すると海上の武士団に取りては常識でございました。

ところが源氏方の総大将源九朗判官義経は、家臣筋に命令して漕ぎて手を射殺せと命令したのでございます。

関東地区から参陣していた水軍は、御大将に進言したのでございます。

漕ぎて手を狙い撃ちにする事は海での合戦ではルール違反でございます。

すると源九朗判官義経は、家臣筋に云ったのでございます。

源九朗判官義経の命令は、兄源頼朝の命令だと思え。

この源九朗判官義経の命令に背く輩は、鎌倉の兄頼朝に逆らう奴として射殺すぞと云ったのでございます。

源平合戦が終了した後に、源九朗判官義経が鎌倉に入る事が出来なかった原因の一つが水軍の合戦でのエチケット違反が存在したのでございます。