8月に攻め昇る城は忍城の事

今度の8月には、あの豊臣秀吉率いる大軍勢を三百騎程の武士団で歯を食いしばり侵入を食い止めた忍城に行って参ります。



忍城が存在する街は、現在の埼玉県行田市でございます。



行田市と云えば、群馬県に近く方言や風俗も群馬県に近いと聴くのでございます。



現在の埼玉県は、武蔵国に合致していて本来的には都会の部類に属します。



あの武家の名門であり源氏の氏の長者足利家執事職である、高家が武蔵守に指名されていました。




武州8ヵ国の中では、武蔵国下総国上総国などが大国でございます。



この大国である武蔵守を、足利家執事職の高家世襲したのでございます。



如何に高家が、足利家に信頼性が高かったかが判ります。



大名家のいち家臣でありながらも守を拝命したのでございます。



しかし足利家執事職高氏も、高師直!高師泰兄弟の時が絶好調期であり足利将軍家高氏の弟足利義直と対立して合戦に負けて殺されてしまいました。



でも高師泰高師直以外の高氏一門衆は、上手く情勢を判断した結果足利家執事職を拝命する事が出来ました。



しかし以前のような勢いは無く、足利家執事職の職能を全うする事でかろうじて家を維持していました。




この後醍醐天皇を見捨てて、朝敵足利高氏を祖とする室町将軍家が繁栄する事はございませんでした。



足利将軍家は、大大名の合議制であり足利将軍家も大大名の一人に政治的には過ぎませんでした。



そして戦国期に突入すると、北条早雲と云う武士が台頭して世の中は兵乱の時代に突入したのでございます。



しかし北条早雲も、元々は室町将軍家に奉職していたれっきとした室町幕府の取次衆と云う役人でございます。



この伊勢新九郎が、伊豆国相模国のニカ国を無理無理自分自身の国にして独立してしまったのでございます。



伊勢新九郎は、氏を変更しました。



伊勢氏は、元々は平家一門衆の一族でございます。


しかし平家一門衆でありながら、源平合戦では源氏方の武士として源頼朝の陣に参陣したのでございます。



其れ以降は、源氏系統である足利家の執事職として伊勢氏一門衆は繁栄したのでございます。




この伊勢新九郎を祖とする北条家が、関東地区の覇者として君臨したのでございます。



忍城の成田氏も、小田原北条家の庇護の元で血脈を維持していたのでございます。



そこに畿内地区を統一して勢いがある豊臣秀吉が、二十万の軍勢を坂東に派遣して忍城には石田三成を大将とする軍勢を派遣したのでございます。



成田家も、坂東の名門の武家でございます。



鎌倉幕府からも、地頭職に指名されて坂東武者としての心意気を見せ付けていたのでございます。



しかし豊臣秀吉の軍勢は、二十万騎であり右往左往する情勢でありました。



ところが成田家の家臣筋は、皆々様が勇者を自覚する強者ばかりでございます。



そこで石田三成率いる軍勢と、三百騎馬の軍勢で互角に合戦を遂行しました。



石田三成率いる幹部と成田家の幹部との話し合いの中で、勇ましく坂東武者の槍の味とくと味あわれよ。畿内地区の皆々様と云ったのでございます。



この石田三成の水攻めにも、耐え忍ぶ事が出来た忍城が次のターゲットでございます。



そこで車中泊する事が出来る道の駅&公共浴場をインターネットを駆使して探し出さなければならないのでございます。