応仁の乱が京都のど真ん中で、各地の守護大名が何万の軍勢を引き連れて東と西に別れて合戦に及んだ。
一方西の陣の総大将には、室町幕府の管領職の細川勝元が就任した。
山名家は、山陰地方の八ヵ国の守護職を拝命している大大名でございます。
一方細川家は、四国と畿内地方の九カ国の守護職を拝命していた。
伊勢新九郎は、室町幕府に奉職するれっきとした役人でございます。
役職は室町幕府の取次衆と云う官職でございます。
各地の守護職の意見を、室町将軍家に繋ぐ事を主たる業務としていました。
ところが応仁の乱は、一行に収まる気配もなく合戦は各地の大名の意地の張り合いの様相になってしまいました。
伊勢新九郎は、室町幕府に奉職する事に嫌気がさして寺の修行僧となってしまいました。
伊勢家は、元々は桓武平氏の流れを汲む一門衆でございます。
源頼朝は、同じ源氏一門衆の足利家の執事職に指名した。
この源頼朝の差配以降は、足利家の執事職として朝廷とのやり取りを担いました。
足利家の執事職には、高家の一門衆が執事職として奉職していた。
高家の一門衆は、武闘派揃いが数多いたために合戦の指揮官として重宝されていました。
伊勢新九郎は、武家の名門であり姉は駿河国の守護職を拝命している今川家の奥方に収まっていました。
ところが今川家でも、総大将は京都の応仁の乱に参陣していたために守護代クラスの武士が今川家の政治を差配していました。
そこで伊勢新九郎は、姉様の危機を助けるために僧から還俗して武家に復帰してしまいました
伊勢新九郎は、見事に今川家の守護代の一門衆を討ち取り姉様の息子を今川家の当主に就任させてしまいました。
其れからは何を考えたのか、伊豆国に討ち入りまんまと伊豆国を乗っ取ってしまいました。
また相模国の守護職三浦介の領地も、二十年の歳月を経てまんまと自分自身の領地にしてしまいました。
伊勢新九郎は、八十代に鳴り伊豆国と相模国のニカ国の戦国大名に就任してしまいました。
戦国大名の条件は、自分自身の国の独自の仕組みにより政治や経済が行なわれる事でございます。