宮本武蔵

宮本武蔵と云えば、剣術の達人であります。

元々は備前の国の出身であり、父親も宮本武蔵ほどではなかったが剣術の達人でありました。

宮本武蔵も、幼い頃から厳しい父親にこき使われて剣術の腕を上げていった。

宮本武蔵の母親は、父親の暴力的な仕打に我慢の限界を感じて武蔵を捨てて逃げ出してしまった。

宮本武蔵の父親も、何処かの大名家の剣術指南役の職を求めて各地を流浪した。

しかし気性が荒々しく、直ぐに立会う武士を斬り殺してしまう

それほど武蔵の父親は、喧嘩と剣術は強かった。

ところが直ぐに斬り殺してしまうために、何処の大名家も宮本武蔵の父親を雇う事はなかった

そして最後には食べる物にも困り果て、何処そこの土地で野垂れ死にした。

父親は死んてしまったが、武蔵は素晴らしい青年に成長していた。

そんな時に天下分け目の関ヶ原合戦が勃発した。

宮本武蔵は主君を持たない浪人生である。

宮本武蔵は考えた。

石田三成の西軍に味方するべきか?

それとも東軍の徳川家康の陣に馳せ参じるべきか悩みに悩んだ

そこで備前の国は、西日本に位置するために宇喜多秀家の陣に馳せ参じる事にした。

宇喜多秀家は、備前の国と備中国備後国の3カ国の領地を持つ大大名である。

ところが宇喜多秀家は、宮本武蔵を雇い入れはしたが足軽大将の何とも低い待遇で処遇した。

宇喜多秀家は、宮本武蔵の存在は知っていた。

しかし宮本武蔵親子に関する評判は良くない。

人殺しの宮本武蔵とか、素行が悪い浪人生など評判は良くなかった。

しかし関ヶ原合戦と云う天下分け目の大戦であり、誰でも良いので足軽が欲しかった。

ところが宮本武蔵は、一対一の合戦には強い。

しかし大軍勢を催した合戦では力を発揮する事が出来なかった

宇喜多秀家は、西軍の有力者として敗戦後領地は没収されて伊豆半島の島に流し者になった。

宮本武蔵は、敗軍の将となり各地の大名家に士官を探して流浪の身分となり果てた。

その間は強い剣術家と幾度となく試合をして、皆を斬り殺してしまった。

そして江戸幕府が出来ると合戦も無くなってしまった。

宮本武蔵のような豪胆な剣術家の需要も無くなり、何処の大名も宮本武蔵を士官する殿様はいなかった。

しかし合戦好きな肥後熊本藩だけが、宮本武蔵を召抱えた。

でも江戸幕府の手前!宮本武蔵を藩の指南役としては雇う事は出来なかった。

そこで熊本藩の客将として、正社員登用では無く臨時雇用として雇い入れた。

そして島原の乱が勃発した。

当然の事ではあるが宮本武蔵熊本藩の軍勢を引き連れて合戦に参加した。

ところが宮本武蔵は、大軍勢を引き連れての合戦では何の活躍も出来なかった。

それどころか島原の乱で、相手方の弓矢を受けて怪我人となってしまった。

宮本武蔵は、面目が無いと言って切腹しようとした。

しかし熊本藩の弟子たちに止めらて、泣く泣く熊本藩に帰還した。