佐々木小次郎は、鎌倉幕府に活躍した近江国の守護職佐々木家の子孫。
佐々木小次郎も宮本武蔵と同じような、各地を放浪している武芸者だった。
この小笠原家も、鎌倉時代からの名門であり長く信濃国の守護職を拝命していた。
小笠原家も、源氏の系統であり信濃源氏の流れを汲む一門衆である。
佐々木小次郎は、剣術の腕も優れていたがパフォーマンスも上手い武芸者だった。
また主君小笠原氏も、武芸を好んだがパフォーマンスも好きである。
佐々木小次郎は、誰もが扱う事が出来ないような太刀を肩に担いで合戦上に現れた。
小倉藩の女性👩は、小次郎様小次郎様と言っては藩の武道館を見物していた。
佐々木小次郎も図に乗り過ぎて弟子を斬り殺す事もあった。
小笠原家の殿様は、斬り殺すパフォーマンスを見物しては愉快愉快と言って喜んだ。
一方熊本藩の客将宮本武蔵は、幼い頃から厳しい父親に鍛えられて真面目な性格になっていた
そして小倉藩主小笠原家から、熊本藩主細川家に剣術指南役同士の合戦を申し込んだ。
小笠原家も源氏系統の名門ならば、細川家も源氏系統の名門である。
しかし細川家は、室町幕府の管領職を拝命するほどの名門である。
格下の大名である小笠原家からの果し状を受取った細川家では受けて立つしか選択肢はなかった。
しかし細川家の剣術指南役は、余り強い先生ではなかった。
そこで白羽の矢が立つたのが、客将である宮本武蔵であった。
細川家の剣術指南役も、宮本武蔵の指導を受ける身であり納得出来る人選だった。
そして巌流島で佐々木小次郎と宮本武蔵の一騎打ちとなるはずだった。
ところが佐々木小次郎は、百人もの門弟を引き連れて合戦場に現れた。
一方宮本武蔵は、小船の船頭一人を引き連れて来た。
しかし宮本武蔵が現れたのは、合戦の約束の5時間後の事である。
佐々木小次郎も門弟もイライラしていた。
そんな時に宮本武蔵は現れた。
もう皆様は解っているはずです
宮本武蔵は、佐々木小次郎は当然の事門弟百人も斬り殺してしまった。
小笠原家の殿様は、パフォーマンスが好きである。
自分自身の剣術指南役が敗れたのに面白い面白いと言って喜んだ。